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2017'04.08 (Sat)

藤ノ木古墳

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

歴史的街並み・西里
法隆寺の西大門を出て藤ノ木古墳に向う途中、歴史的街並み・西里を通ります。

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ここらで、カメラのフォーカスを間違って、AF → MFに切り替えたらしくて、右の説明板はピンボケですが、まあ、こんな看板がありましたという程度にみてください。(ズームのロックボタンとAF・MF切替ボタンが近接しているので、間違えることがあります)


藤ノ木古墳 (Wikipediaから抜粋)
藤ノ木古墳の名称は所在地の字名に由来。 玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。
[概要]
径約50メートル、高さ約9メートルの円墳であるとされているが、現状は削り取られていて、これより小さい。
[石室]
未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた。石室規模は、全長14メートル弱、玄室長は約5.8~6.0メートル、玄室幅は約2.4〜2.7メートル、高さ約4.2〜4.4メートル、羨道長さは約8.3メートル、羨道幅約1.8〜2.1メートル。石棺は二上山の白色凝灰岩で造られており、石棺の内や外は、赤色顔料(水銀朱)で塗られている。棺の大きさは、約235×130×97センチメートルであり、蓋は約230×130センチメートルで、厚さが約52-55センチメートルであり、縄掛突起がついている。
[被葬者]
副葬品から、当時の支配階級であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではなく、その一族の人物と推測されており、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子の宅部皇子であるという説や、元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬されたという説がある。
[発掘調査]
1985年から2006年にかけて6次にわたり発掘調査が行われた。
第1次発掘調査では石室と刳抜式の家形石棺が検出された。石棺と奥壁の間からは金銅製鞍金具などの馬具類や武器・武具類、鉄製農耕具(ミニチュア)などが出土している。このうち金銅製馬具は古代東アジアの馬具の中でも最も豪華なものの一つであり、その装飾模様は、日本、新羅、百済、伽耶いずれにも出土例のな珍しいものである。他に玄室右袖部からは多数の須恵器、土師器が出土し、これらに混じって江戸時代の灯明皿もあった。このことは、近世に至るまで、この石室内で被葬者に対する供養が行われていたことを示している。
1988年の第3次調査では、家形石棺を開口して内部の調査が実施され、2体の人骨のほか、大刀5口と剣1口、金銅製冠や金銅製履などの装身具、銅鏡4面、1万点以上のガラス玉類などの副葬品が検出されている。
[文化財指定]
古墳は国の史跡。出土品は、2004年に国宝に指定され奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で保管・展示されている。
・国宝指定物件は以下のとおり
金銅鞍金具 1背、鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分、金属製品 一括(馬具類、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)、土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)・・・以上石棺外出土
銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)、金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)、ガラス製品 一括(ガラス玉類)、附 繊維類 一括・・・以上石棺内出土

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以前来たときには、ロープが張ってありましたが、今は公園として整備されており説明板も設置されています。

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玄門から中を覗くと、人感センサーが作動して石室に灯が灯ります。


斑鳩文化財センター
藤ノ木古墳から南へ 200mのところに、斑鳩文化財センターがあり、藤ノ木古墳の出土品(レプリカ)を展示してあります。

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門を入った左手に石棺のレプリカが置いてありますが、朱が眼に痛いほどに強烈です。

到着したのは 16:45。閉館は 17:00。15分しかありませんが、学芸員の方が「少しぐらい時間はオーバーしても構いませんよ」と快く迎えてくれました。

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展示室への通路は羨道(えんどう)を模してあります。

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発掘時の石棺内部を再現したレプリカ。人骨、太刀、銅鏡、金銅製履、ガラス類等々、多数の品々が見られます。また、石棺内部の朱がやはり鮮やかです。

多くの展示品の中から、写真でよく見る代表的なものを2点紹介します。

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金銅製鞍金具(前輪)と(後輪(しずわ))。

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金銅製履のレプリカ。銅錆びまで、忠実に模造しているのでしょう。本物といわれても判らないほど、とてもリアルです。

履
金ピカの復元品(ネットから借用)。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館には本物の出土品が展示されています。

ここ、斑鳩文化財センターはレプリカ展示のため、入館は無料で写真撮影もOKですが、年に一度、本物が展示されるそうで、そのときは有料となるそうです。


これで、本日の予定は終了です。
宿泊地は、法隆寺から近い 道の駅「二上パーク當麻の里」ですが、土曜日の奈良は道が渋滞しているため、到着したのは 18:00でした。

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2017'04.04 (Tue)

法隆寺③ 中宮寺から西円堂へ

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担当:アルパパ


境内図


中宮寺
東院伽藍を見終わったときには、既に、16:00を過ぎていました。何度か法隆寺を訪れましたが、その都度、発起寺にも行きたいと思いつつも果たせていません。ここから発起寺までは 1.5km。往復する時間はありません。今回も、また諦めざるを得ませんでした。
東院伽藍のすぐ隣、弥勒菩薩像で有名な中宮寺も、16:00で閉門です。中宮寺の弥勒菩薩像をご覧になりたい方は、時間にご注意ください。

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中宮寺は、現在は法隆寺東院伽藍に隣接していますが、創建当初は400メートルほど東にあり、西院伽藍に匹敵する規模だったとか。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定されています。また、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(間人皇后)の宮殿を寺としたと伝えられており、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれたようですが、定かではありません。

中宮寺弥勒仏 広隆寺弥勒仏
そして、中宮寺いえば、木造菩薩半跏像(国宝)。寺伝では如意輪観音となっていますが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われており、国宝指定の際は、単に「木造菩薩半跏像」とされています。右は、もう一つの有名な広隆寺の木造弥勒菩薩半跏像(国宝:第一号)です。広隆寺の弥勒菩薩は、あまりに熱心に見入った京大生が思わず像に触れ、小指だったかな?折ってしまい話題になったことがありました。どちらの像も、引き込まれてしまうような気高さがあります。
お寺は、やはり仏像ですね。形あるものは何もなく、ただただ、「祓え給い、清め給え」と禊祓う神社と違い、人々は仏像に宿るエネルギー、作り手の想いや祈りを通して見えない世界と繋がり、仏の慈悲を感じます。

中宮寺も発起寺も時間切れとなったので、反転して西院伽藍の西にある西円堂へ向います。


弁天池
実は、法隆寺に着くなり、アル姉はしきりに「弁天池、弁天池」と呟いておりました。「んっ!」と思いつつ無視を決め込んでいたのですが、西院伽藍の向こうに弁天池はありました。弁天池があるということは、弁才天が祀られているということ。立ち寄ってお参りします。

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弁天社の名は、「亥之島弁才天」。石碑によると建立したのは大阪の方々のようです。

これは、アル一家にはちょっとした驚きなのです。というのは、昨年の秋以来、アル一家は、度々弁天様に呼ばれているのです。遊びに行く先を選ぶのはアルパパで、選ぶにあたっては楽しそうなところという以外、何の意図もないのですが、現地に行ってみると、アル姉が「呼ばれている」といい出し、その方向を訪ねてみると弁天様が祀られているということが、何度もありました。

では、その弁才天はどういう存在かというと複雑でよく判らないのですが、元々は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーだといわれています。記紀に登場する日本神話の神々以前の神には、このようにインドに端を発するものがあります。ですから、アルパパは、弁才天と呼ばれている存在もインド由来の古い神様なのだろうと思っています。
それはそれとして、何故呼ばれているのかとなると、多分、その場所を浄化する必要があるからでは・・・と思うのです。現に、呼ばれた場所を調べてみると、昔々、ある存在が封じ込まれた場所であったり、戦国時代に戦場だったのでではないかと思われる場所だったりします。そして、法隆寺近辺も、古代に大和に進出した出雲勢力と九州から東進して来た物部勢力が大和統一の覇権を巡って長く激しい戦いを展開していた場所だろうと思います。

浄化というのはエネルギーの仕事ですが、丁度今回のブログを書き始めたときに、ある方のブログを読んでいたら、「エネルギーの仕事は、外に向かってしているのではない。自分の中の世界に向ってしているという本質から外れてはならない」というのがありました。ということは、アル一家が呼ばれ、「ここは浄化が必要なところ」と思っているのは外の世界、つまり表層的な思考に過ぎず、真実は、自分の潜在意識の奥底に潜んでいる魂の負の記憶を呼び起こして、それを手放していくことではないかということに気付かされました。

まあ、判りにくい話かも知れませんが、色々なことを思いながらも、ここは普通にお参りだけして西円堂への石段を登ります。

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弁天池辺りから見た五重塔。


西円堂
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西円堂(国宝)。夢殿と同じような八角形の建物です。

法隆寺・西円堂・薬師如来坐像
ご本尊の薬師如来坐像(国宝)。どちらかというと、いかめしい顔ですね。
薬師如来の裏側、北面には、アルパパの大好きな不動明王が薄暗い中、カッと眼を見開いていました。

西円堂鐘楼
そして、鐘楼。
正岡子規の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の鐘の音は、この西円堂の鐘ではないかといわれています。

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西円堂から見た街並み。手前の屋根は三経院(国宝)。
家に帰ってから地図で確認して吃驚。この目の前に広がっているのは磯城(しき)郡の町並みでした。磯城は、古代、出雲族の磯城王朝があったところ。まさに、弁天池のところで述べたとおり、古代にはこの地を巡って血生臭い戦いが繰り広げられていたのです。遠く霞んでいるのは三輪山(見えるかな?)です。

もう少しだけ話を続けると、2世紀の中頃、磯城王朝のフトニ大王(孝霊天皇)は、本家筋の出雲王国から、出雲領である播磨地方(兵庫県南西部)が丹波のヒボコ(半島から渡来した辰韓の王子)勢の侵略をうけているとして救援を頼まれます。フトニ大王は、それに応えて、大キビツ彦と若タケキビツ彦、二人の御子を派遣してヒボコ勢の侵略を喰い止めましたが、フトニ王は播磨の地を出雲王国に返そうとはせず、自分の領地にしてしまった上、大軍をもって出雲領吉備国に侵入し、これを占領してしまいました。その後、フトニ王は中国山地を越えて、伯耆(鳥取県西部)にまで攻め込み、そこに居を構えて暮らします。そして、大キビツ彦と若タケキビツ彦、二人の御子は、更に、出雲王国深くまで攻込んで激しい戦いを繰り広げました。やがて劣勢の西出雲王国が休戦を申入れ、二人の御子は戦利品を得て吉備の国に引上げ、ここに大和王国にも拮抗する吉備王国の誕生を宣言します。しかし、フトニ大王が、伯耆の国にいる留守の間に、大和では物部勢が勢力を増し、磯城王朝は弱体化していきます。歴史にifは禁物と言いますが、もし、フトニ大王が播磨の地を出雲王国に返した上で、出雲王国と協力して大和政権の維持にあたっていたら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

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これで、法隆寺観光は終りましたので、西大門を出て、次に藤木古墳に向います。

つづく。

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21:32  |  近畿  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017'04.01 (Sat)

法隆寺② 大宝蔵院・東院伽藍

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境内図


聖霊院 (しょうりょういん)
聖霊院
国宝。西院伽藍の東にあります。聖徳太子を祀るお堂です。東室(僧房)の一部でしたが、1121年に聖霊院を再建するときに東室の南側を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀りました。改造して造ったため、仏堂では珍しく建物の妻側から入る形(妻入)となっています。ここで、ご朱印をいただけます。


大宝蔵院

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大宝蔵院の落成は 1998年です。ということは、前回来たときには工事中だったのですね。この建物は、国宝百済観音(観音菩薩立像)像を展示するために建てたそうですから、百済観音に対して、よほどの思い入れがあったのですね。では、国宝のほんの一部をご紹介しますが、写真撮影禁止ですので、パンフレットからのコピーです。

夢違観音
観音菩薩立像(夢違観音:白鳳期)。高さ87cm、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」といわれています。

百済観音
いよいよ登場! 観音菩薩立像(百済観音:飛鳥港期)。高さ 211cm。9頭身の超スリムな体躯です。この仏像のために建てられた建物の中、この仏像のためだけに一室が充てられています。思い入れの深さは半端じゃないですね。なお、名前の由来ですが、百済渡来の仏師の手にによるものなので、百済観音というようです。

続いて、これまた有名な玉虫厨子。
玉虫厨子
玉虫厨子。高さ 233cm。日本工芸作品の「名宝中の名宝」といわれています。飛鳥時代には、玉虫の羽が光り輝いていたのでしょうが、今は、すっかり剥げ落ちていて、暗い色をしています。上の宮殿(ぐうでん)部には、元は、三尊仏像が収められていましたが、13世紀に盗難にあい、現在は仮に金銅観音像を納めてあるそうです。また、下部の須弥座部には仏教譚が描かれていますが、アルパパも知っている捨身飼虎図は写真の右横です。

捨身飼虎図 picture-tigers.jpg
この絵は、釈迦が飢えに苦しんでいる虎の母子を見て、自らの身体を与えたという物語によるものです。それでは、釈迦が生存できなくなりますが、釈迦の前世のことだといわれています。右は、ネットからお借りしましたが、彩色するとこんな感じ? 釈迦が衣服を脱ぎ、宙に身を躍らせ、子虎のために身を与えている様子がよくわかります。それにしても、子虎多いなあ。

続いては、橘夫人(ぶにん)念持仏厨子と念持仏。
橘婦人厨子 橘夫人持念仏
厨子の高さ 263cm。橘夫人は光明皇后(聖武天皇の皇后、藤原不比等の子)の母、念持仏は阿弥陀三尊。それにしても、橘夫人のものが何故ここに展示されているのか? という疑問が湧いてきますが、それは後で判りました。

大宝蔵院はこれが最後。
聖徳太子画像
教科書でもお馴染みの聖徳太子画像(模写)。

その他にも、観音菩薩立像(九面観音)は必見。1949年の金堂火災の際、たまたま外されていて難を逃れた飛天図の一部も展示されています。


東院伽藍
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東院伽藍に向う途中にある東大門(国宝)。現存する日本最古の門です。写真は、東から西に向けて撮ったもの。

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見えてきましたね、夢殿が。
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じゃん!
夢殿の建つ土地はもともとは聖徳太子一族の住まい「斑鳩の宮」があった場所でしたが、7世紀の中頃、戦乱の中で焼失。それを惜しんだ法隆寺の高僧行信は、同じ地に夢殿を含む上宮王院を建立。のち、その上宮王院が法隆寺に統合されて、現在まで続いてきました。そして、夢殿は聖徳太子を供養する堂として建てられた堂です。八角円堂という夢殿のつくりも、円堂は故人を供養する堂の形という定めに由来しています。内部には太子ゆかりの遺品が集められているのも、そのことの表れです。建立は天平11(739)年頃とされていますが、推古30(622)年に聖徳太子が49歳で亡くなってから約100年。聖徳太子信仰が大きく高まりはじめていて、夢殿はやがて信仰の中心地となりました。法隆寺が上宮王院を吸収したのも、夢殿に集まる聖徳太子信仰の力が欲しかったからといわれます。堂が夢殿と呼ばれるようになったのは平安時代のことですが、その名は、かつて太子が法隆寺に参籠して瞑想にふけったときに黄金でできた人が現れる夢を見たという故事に基づいています。夢殿は太子を供養する場であると同時に、太子が見た夢の器でもあるのです。(法隆寺紹介サイトから抜粋)

そして、夢殿といえば、秘仏
久世観音
救世観音。高さ 179cm(聖徳太子と等身大だそうです)。開扉は、4月11日から5月5日と、10月22日から11月22日の年2回。

以下、救世観音の謎についてのご紹介。(ネットから抜粋)
739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏であった。江戸時代には、約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかった。理由は明らかではないが、封印を解けば神罰が下り、地震で全寺が倒壊すると信じていたようだ。1884年、東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサは調査のために法隆寺を訪れた。当時の日本には、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、日本の古社寺に伝わる貴重な仏像や宝物類が失われつつあった。そこでフェノロサたちは、明治政府の元で、宝物調査を行っていたのである。
<救世観音開扉の瞬間>
1884年8月16日、明治政府の依頼を受けたフェノロサは、法隆寺を訪問した。政府の法隆寺宝物調査は、それ以前にも数回行われていたが、救世観音を納めた厨子の開扉には至らなかった。フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を迫ったが、彼らは聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことを拒んでいた。話し合いはもつれ、長く硬直状態が続いたが、最後には要求が聞き入れられた。救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されている。
『・・・二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。』 それにしても、500ヤードの木綿とは。どれだけ分厚く巻かれていたのでしょうか。

さて、では何故、救世観音は封印されたのかということですが、聖徳太子には暗殺説があります。太子の死後には世が乱れています。そのため、聖徳太子には怨霊説が付きまとっています。加えて、この仏像の制作にあたった仏師の不審死や、後に模刻しようとした仏師が製作途中で亡くなったりもしているようで、そのために、聖徳太子供養のために作られたこの観音像に太子の怨霊が宿っていると考えられたのかも知れません。

夢殿北には
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建物の左半分が絵殿、右半分が舎利殿(重文)。
絵 殿・・・聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められいる。
舎利殿・・・聖徳太子が2才の春に東に向って合掌されたとき、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置しているそうです。

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絵殿と舎利殿の間から奥の伝法堂(国宝)が見えます。伝法堂は、橘夫人の住居を移転して仏堂に改めたものいわれています。
なるほど、橘夫人の住居をここに移すときに、夫人の持ち物も一緒に移ってきたのでしょうね。その中に厨子があり、法隆寺が上宮王院を統合したときに法隆寺の宝物に加えられたということですね。


長くなったので、ここで、一旦切ります。


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2017'03.29 (Wed)

2017年3月・奈良旅行 法隆寺① 西院伽藍

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担当:アルパパ

いつも、遅れ々々の記事ですが、3月18・19日、奈良旅行にいってきました。
今回、奈良に決めたのは、前回の記事「鴨方町歩き」で紹介したように、鴨方町家公園内の「高戸家住宅」の元型が奈良県橿原市今井町にあると知って、「じゃあ、本家の今井町を訪ねてみよう」ということになったわけです。
それだけでは勿体ないので、近くでどこか・・・。ということで、一日目は法隆寺を訪ねることにしました。

3月18日 法隆寺
9:00に倉敷の自宅を出発、途中、休憩を挟みながら法隆寺に到着したのは、13:30。
「法隆寺は何度か訪れているのですが」といいながら、前回の訪問は 1997年4月でしたから、20年振りです。詳細までは、覚えているような、覚えていないような・・・。

車を駐車場に停め、早速、参道ですが、
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家族一同、「記憶にないよねー」と頼りないスタートです。

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南大門(国宝)。ここら辺りから、記憶が蘇り始めました。

法隆寺については、みなさんよくご存知と思いますので、さらっと説明します。
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。(Wikipediaより)

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南大門を潜ると次は中門が、見えてきま・・・せんね。折悪しく、修理中のようです。

中門
見えていれば、こんな感じです。中門(国宝)は、仁王像(国宝)とエンタシスの柱および万字崩の高欄・人字形割束等、見所が多いだけに残念です。

拝観料を払って西院伽藍の中に入ります。1500円、最近値上げになったようです。値上げ前は 1000円。いきなり、50%アップ! 値上げの理由は、観光客が減って維持費が賄えなくなったからだそうですが、一般の経済原理から言うと、需要が減ったら値下げでしょうが・・・。

境内図
などと呟きつつ、早速、観てまわります。

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五重塔(国宝)。倒れ掛かっているわけではありません。毎度々々、歪んだ写真で恐縮です。レンズはズーム一本で済ませたい。できるだけ軽くて、しかも広角から望遠までと欲張ると、まあ、こんなもんです・・・。
塔の高さは 31.5m、初層内部の四面には塑像の仏教譚(国宝)がありますが、暗いのと、仏教譚そのものをあまりよく知らないのとで、観てもピンとはきませんでしたが、何とか北面の釈迦涅槃だけは理解できます。

五重塔・内部北面 a02-thumb.jpg
涅槃に入った釈迦を囲んで、お弟子さんたちが嘆き悲しんでいる様子がリアルに表現されています。ガイドの方が、「この中に、阿修羅がいるのですがお判りになりますか」といっていました。お判りになりますでしょうか。

建物内部は写真撮影禁止なので、建物内部の写真はすべてパンフレットからのコピーです。

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金堂(国宝)。手前は五重塔。

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柱に龍が巻きついています。おっと、よく観ると、中門では観ることのできなかった万字崩の高欄・人字形割束をここで観ることができますね。

そして金堂内には、
金堂・釈迦三尊
ご本尊は釈迦三尊像(国宝:623年)。アルカイックスマイル、飛鳥仏の特徴がよく出ています。他にも、薬師如来坐像(607年)、四天王像、毘沙門天と吉祥天立像と多くの国宝があり、更に、

金堂壁画・阿弥陀浄土
金堂といえば壁画が有名ですが、残念なことに 1949年の火災で焼失。焼失壁画は収蔵庫に保管されており、金堂内に嵌めこまれているのは再現パネルです。

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経蔵(国宝)、鐘楼(国宝)と西院伽藍を取囲む回廊(国宝)。回廊の柱はエンタシスです。

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講堂(国宝)。

講堂・薬師三尊
講堂内には、大きな薬師三尊像(国宝:990年)があります。

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講堂を出たところから見た五重塔と金堂。手前は、枝垂桜と梅。梅の花は終わりですが、桜が咲くと綺麗でしょうね。五重塔は本当は傾いている?

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西院伽藍の最後に中門の覆屋の写真を一枚。修理が終わるのは 2018年のようですね。

いや、本当に国宝だらけです。西院伽藍を出て、次に宝物殿の大宝蔵院へ向います。ここは、更に々々、国宝・重文だらけですが、一旦、ここで切って続きは次回へ。



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2017'03.17 (Fri)

鴨方町歩き その②

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担当:アル姉
2/12(日)

2回にわけるほどでもなかったかな(苦笑)
その②ではかもがた町屋公園周辺のスポットの紹介です。
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町屋公園にあった看板。

鴨神社
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平安時代に京都の加茂大明神を勧請して建立されたと伝えられています。
その①で紹介した宮の石橋で有名です。

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拝殿。

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本殿。

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鴨神社のある稲荷山の山頂に忠魂碑と広場。

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風が強く肌寒いもののなかなかの眺めでした。

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下まで降りて・・・鴨方往来にある鳥居。

浄光寺
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浄土宗鎮西派のお寺。

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浄光寺の向かいには、西山拙斎の居宅至楽居跡と私塾欽塾跡の看板。 西山拙斎は、「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋」と歌われる江戸時代後期の儒学者。

鴨方陣屋跡
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現在は黒住教となっているようです。

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石垣と井戸は当時のもの。黒住教と書いてあったので入らなかったのですが井戸があったのならちょっと見てみればよかったな。

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鴨方陣屋跡の背後の鴨山は備中守護職細川氏の居城であった鴨山城跡です。昔は石が転がってるだけで何もなかったのだけど、今は城跡らしくわかるように整備されているという話だったので今度来たときは山頂まで行ってみます。

長川寺
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曹洞宗の禅寺。室町時代には鴨山城主細川氏の菩提寺となりました。

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長川寺の境内にある龍宮門。旧正伝寺の山門で、明治から昭和にかけては鴨方高等学校が建っており、校門として使われていました。

西山拙斎の碑と墓
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西山家の墓所にある西山拙斎の頌徳碑と墓。

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説明看板。

その他
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現在の鴨方往来。

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少々肌寒い日でしたがそこかしこに春を感じられる町歩きでした。

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テーマ : ちょっとおでかけ - ジャンル : 旅行

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