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2017'05.28 (Sun)

福岡旅行⑤ 2日目 吉野ヶ里遺跡 そのⅠ

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里は 23年振りの訪問です。昔は、埃っぽい地面の所々に、復元住居や倉庫、物見櫓がぽつぽつと建っていた程度でしたが、今では、すっかり、アル姉いわく「遺跡テーマパーク」になっていました。学芸員風の方の話では、当時は、まだ調査も不十分で、よく判らないまま、適当にそれらしきものを建てていたのだとか。えっ、そうだったの? 随分と感激したのですが・・・。その場所は、南内郭と呼ばれる辺りだったようです。
さてさて、柳川川下りは、朝一番の船に乗り、見所も端折りに端折ったのですが、吉野ヶ里に着いたのは 14:00ごろ、全部見切れるのかな?

まず簡単に吉野ヶ里遺跡の紹介から。長いですが、時代背景を理解していただくために、Wikipediaから抜粋します。

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。50haにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる。1986年からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理している。

佐賀県東部は、標高1,000メートルの脊振山地を北端に、南麓の丘陵地帯、筑紫平野、有明海へと、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つである。
吉野ヶ里遺跡の特徴とされるのが防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りのための物見櫓が環濠内に置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられており、内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる建物が内郭の中で見つかっている。また、多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、すさまじい戦いの跡が見てとれる。

縄文時代
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。縄文時代前期には、海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。

弥生時代
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。

古墳時代
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。

引用、以上。

以前の記事で、
八代目を失った出雲族は、九代目の主王・副王を立てます。この様子を見ていた徐福は、このままここに居ても王にはなれないと判断し、息子の五十猛と母親を残して一旦帰国しますが、もう一度、紀元前 210年に、またもや始皇帝を騙して、3000人の若者と多くの熟練工、多くの資材を携えて、再び日本に上陸します。今度は、徐福は人の少ないところを狙って、有明海から、筑後川下流に上陸しました。当時の 3000人は大集団です。彼は吉野ヶ里を拠点として勢力を広げ、物部氏を名乗ります。徐福の王国は、当初、築秦国と呼ばれていましたが、それが築紫国になったそうです。・・・と書きました。

除福はここに上陸後、先住の出雲族と混血しながら次第に勢力を増し、この丘陵地帯を拠点として物部王国を作り上げていくわけですが、勢力を増すに連れ、周辺の部族との争いも増えていったのでしょう。ここの環濠による防御構造は圧巻ですが、それは徐福の故郷、中国山東省の臨淄(りんし)古城に似ているそうです。

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公園入口

公園案内図
吉野ヶ里map
全体図は広大すぎてわかりにくいので、分割します。まず、最初に向ったのは、「南のムラ」です。

吉野ヶ里map①


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公園に入り、天の浮橋と呼ばれる橋の上から、北を望む。奥に見えるこの建物は何だ? 後ほど、紹介。

いよいよ、遺跡の中に入っていきます。
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木柵、土塁。

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環濠、逆茂木(さかもぎ)。いきなり、度肝を抜かれるような景色が現れます。これは、二重環壕の外側部分です。
子供の頃に、陣地を作ったり、落とし穴を掘ったりして、戦争ごっこをやりましたが、これは、大人の本気バージョンですね。緊張感が伝わってくるようです。同じ弥生時代ですが、妻木晩田遺跡の長閑さとはまったく異質の世界が拡がっています。

「南のムラ」
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広場から見た「南のムラ」の風景。

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「南のムラ」集落の説明。

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ここは、「南のムラ」の「南の一家」の住居。

次は、「ムラ長の一家」の住居。
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ムラ長の家。一般ムラ人の家に較べるとやはり大きいです。

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ムラ長一家の敷地の一画には、集会所もあります。

「南のムラ」の「北の一家」は農作業の傍ら、麻布や絹布を織っています。
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絹布ということは当然、養蚕を行なっているわけですね。このように、日本でも、弥生時代には既に絹布の生産は行なわれていたということですが、除福集団が持ち込んだものかも知れませんね。

これで、ざっと「南のムラ」の紹介をしたわけですが、のんびり見ていたので、1時間以上掛かってしまいました。17:00の閉園まで、残り 2時間弱。ここからは、大急ぎで、「倉と市」 「南内郭」へと向います。

つづく。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

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