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2017'04.27 (Thu)

2017年4月 鳥取西部旅行 1

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

3月の奈良旅行の次は、鳥取県の妻木晩田遺跡と春爛漫の鳥取花回廊に行こうと決めていたので、4/14・15と鳥取西部旅行に出かけました。

4月14日 妻木晩田(むきばんだ)遺跡 ①
朝から快晴。蒜山SAからの一枚。大山南壁はまだ雪を被っています。
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12:30ごろ妻木晩田遺跡に到着。妻木晩田遺跡は、鳥取県西伯郡大山町の日本海に近い小高い妻木山の上にあります。
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管理棟と名残りの桜。

妻木晩田遺跡 Wikipediaから抜粋引用。
妻木晩田遺跡群は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡。遺跡の面積は170ヘクタールにもなり、これは吉野ヶ里遺跡の 3倍におよぶ大規模なものである。大山山系・孝霊山から続く丘陵上に位置し、美保湾(日本海)を一望できる。島根県安来市から、この妻木晩田遺跡まで弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられる。(※コメント:古代出雲の中心地は、松江市~出雲市あたりだと思います。ここは東出雲王家の分家のあったところです)
標高 90-120メートル前後の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールの内、17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴住居 395基、掘建柱建物跡 502基、墳丘墓 24基、環壕等が検出されている。一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落であるが、比較的大規模で長期にわたる例は少ない。
集落は、概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成で、後期中頃以前には洞ノ原(どうのはら)地区の最西端に環壕が機能していたものと考えられる。また居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3-4棟の単位によって構成されるものと見られ、弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される建物跡も確認されている。
竪穴住居は、全部で 700ぐらいある。その中の大部分は小さくて深く、直径3-6メートル、深さ1メートルぐらいで、外から見ると屋根しか見えない。大きい竪穴住居は浅くて、直径6-8メートル、深さ0.5-0.7メートルぐらいで、外から見ても壁が見える。小さい方は土屋根で、大きい方は草葺き屋根であろうと推測出来る。さらに、大型建物のそばには、先に述べた大きい竪穴住居が必ずといっていいほどある。これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。弥生の終わりの3世紀中頃から4世紀ぐらいまでにかけて、有力者も竪穴住居に居住していたと思われる。
遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している。鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで 197点が出土してている。

妻木晩田遺跡案内図

洞ノ原地区
まずは、洞ノ原地区から見学します。ここでは、復元住居・復元倉庫と墳丘墓が見られます。
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看板の左下の赤丸はいたずら書きではなく、環濠の位置を示しています。

暫く歩いていくと、洞ノ原8号と名付けられた復元竪穴住居があります。1800年前というと、2世紀末か、3世紀初頭です。
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草屋根の上に土を被せてあり、これを土屋根というのですね。復元住居も沢山見てきましたが、こういうのは初めてです。屋根が腐らないのかな?
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黒い影は、ストロボの光によってできたレンズの影(ケラレ)です。横着して、ズーム一本で済まそうとすると、こうなります。

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洞ノ原地区の真ん中あたり、復元住居の西隣には、古墳があります。これは洞ノ原1号墳。説明板によると、紀元 0年ごろ、先ほどの住居より古墳の方が 200年ほど古い。既にあった古墳の隣に住居を立てたことになります。

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今は埋め戻されているので、その形は説明パネルの写真ほど明確には判りません。

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子供のものでしょうか。小さな古墳もあります。

四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓は古代出雲王国固有のもので、古墳の最初の形といわれています。その後、吉備地方の二方突出型墳丘墓(岡山県の楯突遺跡)を経て、前方後円墳へと形を変えつつ大型化していきます。
四隅が突出しているのは×印を表し、生命再生の意味です。

洞の原地区西端は環濠集落( 1世紀後半)となっており、復元した住居と倉庫が見られます。ここは、古墳より新しく、洞ノ原8号復元住居よりは古いということになります。
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環濠跡の一部は埋め戻しをせずに展示されていますが、意外に小さな濠です。外敵の侵入を防ぐ目的とすれば、これで役に立つのかな? という感じです。


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土屋根に草が生えています。この住居の周りには排水溝があります。

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高床式倉庫。この倉庫の下は平らで少し盛上がっていますが、古墳の上に立っているのだそうです。古代の人は、墓の隣だろうが、上だろうが無頓着だったのでしょうか。それとも、お墓とは気づかず、平で丁度恰好な土地があったと思ったのでしょうか。いずれにせよ、ちょっとした驚きでした。

この辺りが最も栄えたのは 2世紀後半まで。その後は建物は作られておらず、古墳時代には古墳が造られました。30基余りの古墳が認められており、晩田山古墳群といわれています。
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意識していなかったので、ちゃんとした写真を撮っていないのですが、この風景写真に写っている山の斜面のちょっとした土盛の一つひとつが小さな古墳だと思います。訪ねられる方がおられましたら、確認してみてください。

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この丘の上からは、弓ヶ浜と日本海、島根半島を一望できます。人家の密集した淀江の町は当時は砂州で、その内側は湖沼であったそうです。ここに住む人たちは、下の水田まで下りて米を作り、海まで行って漁労をするという生活していたのでしょう。戦さえなければのどかで平和な暮らしが想像されます。

この遺跡に住んでいたのは、東出雲王家の分家筋であったと言われていますが、当時は、後漢書東夷伝に倭国大乱と書かれた時期。この辺りも、激しい戦に巻き込まれてしまいます。詳しくは、鳥取西部旅行 3で改めて説明します。

つづく。


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Comment

行きたいです。
私も鳥取や島根に行きましたが、本当に初心者マークの旅行でした。どちらかというと、こういうマニアックなところの方が好きな私。羨ましいです。
楽しませんていただきます。
ちびママ | 2017年04月29日(土) 09:38 | URL | コメント編集

ちびママさんへ

コメントありがとうございます。
去年の秋から、原日本人=縄文人=出雲族を追っかけていることに気づきました。この遺跡も、その延長線上にあります。とても懐かしいような感じがしましたが、我々の遺伝子の奥底には、この頃の記憶も眠っていのでしょうね。2時間半もあれば行けるので、また、行ってみたいと思います。

アルパパ

 | 2017年04月29日(土) 15:02 | URL | コメント編集

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