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2017'04.04 (Tue)

法隆寺③ 中宮寺から西円堂へ

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ


境内図


中宮寺
東院伽藍を見終わったときには、既に、16:00を過ぎていました。何度か法隆寺を訪れましたが、その都度、発起寺にも行きたいと思いつつも果たせていません。ここから発起寺までは 1.5km。往復する時間はありません。今回も、また諦めざるを得ませんでした。
東院伽藍のすぐ隣、弥勒菩薩像で有名な中宮寺も、16:00で閉門です。中宮寺の弥勒菩薩像をご覧になりたい方は、時間にご注意ください。

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中宮寺は、現在は法隆寺東院伽藍に隣接していますが、創建当初は400メートルほど東にあり、西院伽藍に匹敵する規模だったとか。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定されています。また、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(間人皇后)の宮殿を寺としたと伝えられており、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれたようですが、定かではありません。

中宮寺弥勒仏 広隆寺弥勒仏
そして、中宮寺いえば、木造菩薩半跏像(国宝)。寺伝では如意輪観音となっていますが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われており、国宝指定の際は、単に「木造菩薩半跏像」とされています。右は、もう一つの有名な広隆寺の木造弥勒菩薩半跏像(国宝:第一号)です。広隆寺の弥勒菩薩は、あまりに熱心に見入った京大生が思わず像に触れ、小指だったかな?折ってしまい話題になったことがありました。どちらの像も、引き込まれてしまうような気高さがあります。
お寺は、やはり仏像ですね。形あるものは何もなく、ただただ、「祓え給い、清め給え」と禊祓う神社と違い、人々は仏像に宿るエネルギー、作り手の想いや祈りを通して見えない世界と繋がり、仏の慈悲を感じます。

中宮寺も発起寺も時間切れとなったので、反転して西院伽藍の西にある西円堂へ向います。


弁天池
実は、法隆寺に着くなり、アル姉はしきりに「弁天池、弁天池」と呟いておりました。「んっ!」と思いつつ無視を決め込んでいたのですが、西院伽藍の向こうに弁天池はありました。弁天池があるということは、弁才天が祀られているということ。立ち寄ってお参りします。

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弁天社の名は、「亥之島弁才天」。石碑によると建立したのは大阪の方々のようです。

これは、アル一家にはちょっとした驚きなのです。というのは、昨年の秋以来、アル一家は、度々弁天様に呼ばれているのです。遊びに行く先を選ぶのはアルパパで、選ぶにあたっては楽しそうなところという以外、何の意図もないのですが、現地に行ってみると、アル姉が「呼ばれている」といい出し、その方向を訪ねてみると弁天様が祀られているということが、何度もありました。

では、その弁才天はどういう存在かというと複雑でよく判らないのですが、元々は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーだといわれています。記紀に登場する日本神話の神々以前の神には、このようにインドに端を発するものがあります。ですから、アルパパは、弁才天と呼ばれている存在もインド由来の古い神様なのだろうと思っています。
それはそれとして、何故呼ばれているのかとなると、多分、その場所を浄化する必要があるからでは・・・と思うのです。現に、呼ばれた場所を調べてみると、昔々、ある存在が封じ込まれた場所であったり、戦国時代に戦場だったのでではないかと思われる場所だったりします。そして、法隆寺近辺も、古代に大和に進出した出雲勢力と九州から東進して来た物部勢力が大和統一の覇権を巡って長く激しい戦いを展開していた場所だろうと思います。

浄化というのはエネルギーの仕事ですが、丁度今回のブログを書き始めたときに、ある方のブログを読んでいたら、「エネルギーの仕事は、外に向かってしているのではない。自分の中の世界に向ってしているという本質から外れてはならない」というのがありました。ということは、アル一家が呼ばれ、「ここは浄化が必要なところ」と思っているのは外の世界、つまり表層的な思考に過ぎず、真実は、自分の潜在意識の奥底に潜んでいる魂の負の記憶を呼び起こして、それを手放していくことではないかということに気付かされました。

まあ、判りにくい話かも知れませんが、色々なことを思いながらも、ここは普通にお参りだけして西円堂への石段を登ります。

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弁天池辺りから見た五重塔。


西円堂
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西円堂(国宝)。夢殿と同じような八角形の建物です。

法隆寺・西円堂・薬師如来坐像
ご本尊の薬師如来坐像(国宝)。どちらかというと、いかめしい顔ですね。
薬師如来の裏側、北面には、アルパパの大好きな不動明王が薄暗い中、カッと眼を見開いていました。

西円堂鐘楼
そして、鐘楼。
正岡子規の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の鐘の音は、この西円堂の鐘ではないかといわれています。

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西円堂から見た街並み。手前の屋根は三経院(国宝)。
家に帰ってから地図で確認して吃驚。この目の前に広がっているのは磯城(しき)郡の町並みでした。磯城は、古代、出雲族の磯城王朝があったところ。まさに、弁天池のところで述べたとおり、古代にはこの地を巡って血生臭い戦いが繰り広げられていたのです。遠く霞んでいるのは三輪山(見えるかな?)です。

もう少しだけ話を続けると、2世紀の中頃、磯城王朝のフトニ大王(孝霊天皇)は、本家筋の出雲王国から、出雲領である播磨地方(兵庫県南西部)が丹波のヒボコ(半島から渡来した辰韓の王子)勢の侵略をうけているとして救援を頼まれます。フトニ大王は、それに応えて、大キビツ彦と若タケキビツ彦、二人の御子を派遣してヒボコ勢の侵略を喰い止めましたが、フトニ王は播磨の地を出雲王国に返そうとはせず、自分の領地にしてしまった上、大軍をもって出雲領吉備国に侵入し、これを占領してしまいました。その後、フトニ王は中国山地を越えて、伯耆(鳥取県西部)にまで攻め込み、そこに居を構えて暮らします。そして、大キビツ彦と若タケキビツ彦、二人の御子は、更に、出雲王国深くまで攻込んで激しい戦いを繰り広げました。やがて劣勢の西出雲王国が休戦を申入れ、二人の御子は戦利品を得て吉備の国に引上げ、ここに大和王国にも拮抗する吉備王国の誕生を宣言します。しかし、フトニ大王が、伯耆の国にいる留守の間に、大和では物部勢が勢力を増し、磯城王朝は弱体化していきます。歴史にifは禁物と言いますが、もし、フトニ大王が播磨の地を出雲王国に返した上で、出雲王国と協力して大和政権の維持にあたっていたら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

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これで、法隆寺観光は終りましたので、西大門を出て、次に藤木古墳に向います。

つづく。

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