2017年08月 / 07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

2017'04.01 (Sat)

法隆寺② 大宝蔵院・東院伽藍

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ


境内図


聖霊院 (しょうりょういん)
聖霊院
国宝。西院伽藍の東にあります。聖徳太子を祀るお堂です。東室(僧房)の一部でしたが、1121年に聖霊院を再建するときに東室の南側を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀りました。改造して造ったため、仏堂では珍しく建物の妻側から入る形(妻入)となっています。ここで、ご朱印をいただけます。


大宝蔵院

DSC09170.jpg
大宝蔵院の落成は 1998年です。ということは、前回来たときには工事中だったのですね。この建物は、国宝百済観音(観音菩薩立像)像を展示するために建てたそうですから、百済観音に対して、よほどの思い入れがあったのですね。では、国宝のほんの一部をご紹介しますが、写真撮影禁止ですので、パンフレットからのコピーです。

夢違観音
観音菩薩立像(夢違観音:白鳳期)。高さ87cm、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」といわれています。

百済観音
いよいよ登場! 観音菩薩立像(百済観音:飛鳥港期)。高さ 211cm。9頭身の超スリムな体躯です。この仏像のために建てられた建物の中、この仏像のためだけに一室が充てられています。思い入れの深さは半端じゃないですね。なお、名前の由来ですが、百済渡来の仏師の手にによるものなので、百済観音というようです。

続いて、これまた有名な玉虫厨子。
玉虫厨子
玉虫厨子。高さ 233cm。日本工芸作品の「名宝中の名宝」といわれています。飛鳥時代には、玉虫の羽が光り輝いていたのでしょうが、今は、すっかり剥げ落ちていて、暗い色をしています。上の宮殿(ぐうでん)部には、元は、三尊仏像が収められていましたが、13世紀に盗難にあい、現在は仮に金銅観音像を納めてあるそうです。また、下部の須弥座部には仏教譚が描かれていますが、アルパパも知っている捨身飼虎図は写真の右横です。

捨身飼虎図 picture-tigers.jpg
この絵は、釈迦が飢えに苦しんでいる虎の母子を見て、自らの身体を与えたという物語によるものです。それでは、釈迦が生存できなくなりますが、釈迦の前世のことだといわれています。右は、ネットからお借りしましたが、彩色するとこんな感じ? 釈迦が衣服を脱ぎ、宙に身を躍らせ、子虎のために身を与えている様子がよくわかります。それにしても、子虎多いなあ。

続いては、橘夫人(ぶにん)念持仏厨子と念持仏。
橘婦人厨子 橘夫人持念仏
厨子の高さ 263cm。橘夫人は光明皇后(聖武天皇の皇后、藤原不比等の子)の母、念持仏は阿弥陀三尊。それにしても、橘夫人のものが何故ここに展示されているのか? という疑問が湧いてきますが、それは後で判りました。

大宝蔵院はこれが最後。
聖徳太子画像
教科書でもお馴染みの聖徳太子画像(模写)。

その他にも、観音菩薩立像(九面観音)は必見。1949年の金堂火災の際、たまたま外されていて難を逃れた飛天図の一部も展示されています。


東院伽藍
DSC09174_20170329154854879.jpg
東院伽藍に向う途中にある東大門(国宝)。現存する日本最古の門です。写真は、東から西に向けて撮ったもの。

DSC09176.jpg
見えてきましたね、夢殿が。
DSC09180.jpg
じゃん!
夢殿の建つ土地はもともとは聖徳太子一族の住まい「斑鳩の宮」があった場所でしたが、7世紀の中頃、戦乱の中で焼失。それを惜しんだ法隆寺の高僧行信は、同じ地に夢殿を含む上宮王院を建立。のち、その上宮王院が法隆寺に統合されて、現在まで続いてきました。そして、夢殿は聖徳太子を供養する堂として建てられた堂です。八角円堂という夢殿のつくりも、円堂は故人を供養する堂の形という定めに由来しています。内部には太子ゆかりの遺品が集められているのも、そのことの表れです。建立は天平11(739)年頃とされていますが、推古30(622)年に聖徳太子が49歳で亡くなってから約100年。聖徳太子信仰が大きく高まりはじめていて、夢殿はやがて信仰の中心地となりました。法隆寺が上宮王院を吸収したのも、夢殿に集まる聖徳太子信仰の力が欲しかったからといわれます。堂が夢殿と呼ばれるようになったのは平安時代のことですが、その名は、かつて太子が法隆寺に参籠して瞑想にふけったときに黄金でできた人が現れる夢を見たという故事に基づいています。夢殿は太子を供養する場であると同時に、太子が見た夢の器でもあるのです。(法隆寺紹介サイトから抜粋)

そして、夢殿といえば、秘仏
久世観音
救世観音。高さ 179cm(聖徳太子と等身大だそうです)。開扉は、4月11日から5月5日と、10月22日から11月22日の年2回。

以下、救世観音の謎についてのご紹介。(ネットから抜粋)
739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏であった。江戸時代には、約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかった。理由は明らかではないが、封印を解けば神罰が下り、地震で全寺が倒壊すると信じていたようだ。1884年、東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサは調査のために法隆寺を訪れた。当時の日本には、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、日本の古社寺に伝わる貴重な仏像や宝物類が失われつつあった。そこでフェノロサたちは、明治政府の元で、宝物調査を行っていたのである。
<救世観音開扉の瞬間>
1884年8月16日、明治政府の依頼を受けたフェノロサは、法隆寺を訪問した。政府の法隆寺宝物調査は、それ以前にも数回行われていたが、救世観音を納めた厨子の開扉には至らなかった。フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を迫ったが、彼らは聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことを拒んでいた。話し合いはもつれ、長く硬直状態が続いたが、最後には要求が聞き入れられた。救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されている。
『・・・二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。』 それにしても、500ヤードの木綿とは。どれだけ分厚く巻かれていたのでしょうか。

さて、では何故、救世観音は封印されたのかということですが、聖徳太子には暗殺説があります。太子の死後には世が乱れています。そのため、聖徳太子には怨霊説が付きまとっています。加えて、この仏像の制作にあたった仏師の不審死や、後に模刻しようとした仏師が製作途中で亡くなったりもしているようで、そのために、聖徳太子供養のために作られたこの観音像に太子の怨霊が宿っていると考えられたのかも知れません。

夢殿北には
DSC09182_20170329160343e0b.jpg
建物の左半分が絵殿、右半分が舎利殿(重文)。
絵 殿・・・聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められいる。
舎利殿・・・聖徳太子が2才の春に東に向って合掌されたとき、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置しているそうです。

DSC09186_20170329160345333.jpg
絵殿と舎利殿の間から奥の伝法堂(国宝)が見えます。伝法堂は、橘夫人の住居を移転して仏堂に改めたものいわれています。
なるほど、橘夫人の住居をここに移すときに、夫人の持ち物も一緒に移ってきたのでしょうね。その中に厨子があり、法隆寺が上宮王院を統合したときに法隆寺の宝物に加えられたということですね。


長くなったので、ここで、一旦切ります。


にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ
スポンサーサイト

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り - ジャンル : 旅行

12:50  |  近畿  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://alking.blog12.fc2.com/tb.php/461-aff7f666

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME |