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2017'05.31 (Wed)

福岡旅行⑥ 2日目 吉野ヶ里遺跡 そのⅡ

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

「南のムラ」でのんびりし過ぎました。残り時間を考えると、これから後は、大急ぎで見て回る必要がありそうです。

吉野ヶ里map②

次に向うのは、二重環壕の内側、「南内殻」と呼ばれる、王や大人(たいじん)と呼ばれる主要閣僚たちが住む中核部分ですが、そこへは、「倉と市」と呼ばれる交易ゾーンを通って行きます。

「倉と市」
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少し小高いところから俯瞰した「倉と市」の全体像です。
この一画には、交易に関連する「市の倉」、「貢物の倉」、「市楼」の他、市の管理者である「村長(むらおさ)の住居」、市の秩序を守るための「兵士の詰所」等、多彩な建物が建ち並んでおり、全体は外環壕に囲まれています。

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兵士の住居と兵士の倉。

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市楼と兵士の詰め所。市楼は、ここで開かれる市を管理する建物。一階で、市への参加許可証が発行されます。二階には、市の開催を知らせる太鼓があり、兵士たちが見張っています。

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稲籾の倉。

「倉と市」を見終わったあと、「倉と市」と「南内郭」の間の壕と柵で囲まれた、細長い部分を通ります。ここは、「倉と市」から切り離され防御されており、大切なものが保管されています。

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左手が「市」、右手の柵の奥が、王の住む「南内郭」です。

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まずは、貢物の倉。

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原料の倉。

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武器の倉。貢物の倉と外観は一緒です。中に収められたものが残っていなかったら、区別は困難ですが、どうだったのでしょう。

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武器の倉の中には、槍、弓矢、刀、防具等があります。


「南内郭」
急いで、「倉と市」を見終え、いよいよ、王の住いである「南内郭」に入ります。
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南内郭は、内環壕と土塁で防御されており、更にその奥に見える柵の中が王の住いです。壕を掘った土を盛上げて土塁を作り、その上に柵を設けています。厳重です。

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物見櫓から俯瞰した南内郭。手前の柵の中が王の住いです。少し、大きいですが、外観は一般の住居と特に変りはありません。向こうにも、物見櫓が見えます。この南内郭には、物見櫓が 4つもあります。矢傷を負った兵士の骨が出土されているところを見ると、やはり、相当、物騒だったのでしょうか。

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王の家。

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「王の家」の内部。南内郭の中の更に柵で囲われた一角には、王の家、王の妻の家、王の娘夫婦の家があります。
ここに限らず、「発掘した柱の穴の跡から、どうやって家族関係がわかるのだろう?」と突っ込みたくなりますが、それはそれ、つまりは遺跡テーマパークのファンタジーなのでしょう。

この「南内郭」内は他にも「大人(たいじん)」と呼ばれる主要閣僚と家族たちの住いがあります。

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右に見えているのが、祭祀担当の大人の家(後向き)。正面がその妻の家。大人の家の向こうは王の家。

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軍事担当の大人と妻の家。
他にも、裁定と外交の大人の家がありますが、裁定と外交の大人は、妻の家が分かれていません。

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1800年前、政治は、既に、機能分化していたのですね。

その他。
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左は煮炊屋の内部。王や大人の食事は、ここで作られて、それぞれの家へ運ばれます。
右は集会の館。王や大人がここで儀式や話合いをします。

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織物の原材料。染色技術も進んだものを持っていました。
公園内では、火起こし、脱穀始め、色々な体験ができるゾーンがあります。一日掛けるだけの時間があれば、楽しめそうですね。

やっと、南内郭が終り、これからハイライトの「あの建物」がある北内郭へと向います。

つづく。

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2017'05.28 (Sun)

福岡旅行⑤ 2日目 吉野ヶ里遺跡 そのⅠ

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里は 23年振りの訪問です。昔は、埃っぽい地面の所々に、復元住居や倉庫、物見櫓がぽつぽつと建っていた程度でしたが、今では、すっかり、アル姉いわく「遺跡テーマパーク」になっていました。学芸員風の方の話では、当時は、まだ調査も不十分で、よく判らないまま、適当にそれらしきものを建てていたのだとか。えっ、そうだったの? 随分と感激したのですが・・・。その場所は、南内郭と呼ばれる辺りだったようです。
さてさて、柳川川下りは、朝一番の船に乗り、見所も端折りに端折ったのですが、吉野ヶ里に着いたのは 14:00ごろ、全部見切れるのかな?

まず簡単に吉野ヶ里遺跡の紹介から。長いですが、時代背景を理解していただくために、Wikipediaから抜粋します。

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。50haにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる。1986年からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理している。

佐賀県東部は、標高1,000メートルの脊振山地を北端に、南麓の丘陵地帯、筑紫平野、有明海へと、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つである。
吉野ヶ里遺跡の特徴とされるのが防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りのための物見櫓が環濠内に置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられており、内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる建物が内郭の中で見つかっている。また、多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、すさまじい戦いの跡が見てとれる。

縄文時代
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。縄文時代前期には、海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。

弥生時代
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。

古墳時代
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。

引用、以上。

以前の記事で、
八代目を失った出雲族は、九代目の主王・副王を立てます。この様子を見ていた徐福は、このままここに居ても王にはなれないと判断し、息子の五十猛と母親を残して一旦帰国しますが、もう一度、紀元前 210年に、またもや始皇帝を騙して、3000人の若者と多くの熟練工、多くの資材を携えて、再び日本に上陸します。今度は、徐福は人の少ないところを狙って、有明海から、筑後川下流に上陸しました。当時の 3000人は大集団です。彼は吉野ヶ里を拠点として勢力を広げ、物部氏を名乗ります。徐福の王国は、当初、築秦国と呼ばれていましたが、それが築紫国になったそうです。・・・と書きました。

除福はここに上陸後、先住の出雲族と混血しながら次第に勢力を増し、この丘陵地帯を拠点として物部王国を作り上げていくわけですが、勢力を増すに連れ、周辺の部族との争いも増えていったのでしょう。ここの環濠による防御構造は圧巻ですが、それは徐福の故郷、中国山東省の臨淄(りんし)古城に似ているそうです。

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公園入口

公園案内図
吉野ヶ里map
全体図は広大すぎてわかりにくいので、分割します。まず、最初に向ったのは、「南のムラ」です。

吉野ヶ里map①


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公園に入り、天の浮橋と呼ばれる橋の上から、北を望む。奥に見えるこの建物は何だ? 後ほど、紹介。

いよいよ、遺跡の中に入っていきます。
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木柵、土塁。

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環濠、逆茂木(さかもぎ)。いきなり、度肝を抜かれるような景色が現れます。これは、二重環壕の外側部分です。
子供の頃に、陣地を作ったり、落とし穴を掘ったりして、戦争ごっこをやりましたが、これは、大人の本気バージョンですね。緊張感が伝わってくるようです。同じ弥生時代ですが、妻木晩田遺跡の長閑さとはまったく異質の世界が拡がっています。

「南のムラ」
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広場から見た「南のムラ」の風景。

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「南のムラ」集落の説明。

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ここは、「南のムラ」の「南の一家」の住居。

次は、「ムラ長の一家」の住居。
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ムラ長の家。一般ムラ人の家に較べるとやはり大きいです。

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ムラ長一家の敷地の一画には、集会所もあります。

「南のムラ」の「北の一家」は農作業の傍ら、麻布や絹布を織っています。
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絹布ということは当然、養蚕を行なっているわけですね。このように、日本でも、弥生時代には既に絹布の生産は行なわれていたということですが、除福集団が持ち込んだものかも知れませんね。

これで、ざっと「南のムラ」の紹介をしたわけですが、のんびり見ていたので、1時間以上掛かってしまいました。17:00の閉園まで、残り 2時間弱。ここからは、大急ぎで、「倉と市」 「南内郭」へと向います。

つづく。

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2017'05.25 (Thu)

福岡旅行④  2日目 柳川町歩き 

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

5/1(月) 柳川町歩き
御花北門で下船したあと、午後からであれば無料の送迎バスがあるのですが、午前の場合はタクシーかバスを使うことになります。でも舟から見た散歩道があまりにも気持ちがよさそうだったので「歩いて帰りたい」とアルママ。御花から三柱神社までをお堀に沿って歩いて帰ることにしました。

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御花を出発。

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途中までは白秋道路を歩きます。

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生家から中学までの通学路が白秋道路として整備されています。お堀を見ると次から次へとどんこ舟がやってきます。私たちが乗った一便は乗船客も少なくとてもゆったりと乗れたのですが、この時間帯に見かけるどんこ舟はどれもぎゅうぎゅうで写真を撮るのも大変そうな状態でした。

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壇一雄文学碑。「リツ子・その愛」「火宅の人」で有名な直木賞作家・壇一雄氏の碑で、有明潟睦五郎の哥が刻まれています。

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白秋道路をしばらく歩くと日本の道百選の道標。白秋道路をそのまま歩くと外堀沿いの遊歩道となりますが、川下りと同じコースを内堀沿いに歩くことにしました。日本の道百選の水辺の散歩道を目指します。

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散歩道を歩いていると数々のどんこ舟とすれ違います。船頭さんの軽妙なトークや歌声が聞こえてきて、乗客の歓声もあがっていて楽しそう。ちょっと前までは自分もあんな風に涼やかに舟に乗っていたのになぁ・・・と炎天下の中を歩きます(苦笑)

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若いイケメンのお兄さんからいぶし銀の老年まで船頭さんも色々です。歌声もちょっと音痴の人からリクエストしたくなるほど上手い人まで様々。道を歩いていると自分が乗った舟以外も楽しめる感じがします。

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日吉神社。柳川の総鎮守。大きなお福さんが迎えてくれました。

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劉寒吉うなぎ供養碑。船上からはあまりよく見えなかったのですがうなぎと河童の絵も描かれていますね。柳川の名物と言えばうなぎ。うなぎが大好きなアルパパも少し食べたそうにしていましたがアル姉は苦手なので却下ですよ。毎年7月には供養祭が行われるそうです。

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日本の道百選の碑。新緑の柳とどんこ舟が絵になります。

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アルパパはお堀とどんこ舟を撮るのに夢中で道の写真が一切ありませんでしたので、ちょっとお借りしてきました。一部整備中で通行止めになったりもしていましたが日本の道百選というのが納得できる気持ちのいい散歩道です。

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この辺りはどんこ舟から見た景色と同じくらい、無駄なものが視界に入らず美しく感じられます。

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並倉。

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大正創業の粕漬屋さん。

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二ツ川と外堀に作られた水門。来るときはこの下をどんこ舟で通りました。

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さすがに初夏の日差しの中を歩くというのは暑いですね。どんこ舟で堀をめぐったときの涼しさが噓のようです。

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らんかん橋と乗船場が見えてきました。

三柱神社
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実はこのらんかん橋、三柱神社の参道橋になっています。三柱神社は初代柳川藩主 立花宗茂公、岳父である戸次道雪公、妻である誾千代姫の三神を祀ったことから、三柱神社と称します。

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拝殿。平成17年に放火されたため、拝殿(平成20年12月竣工)・唐門・楼門・回廊を全焼し、現在復興中とのことです。

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熊本地震でも被害を受けたりとなかなか大変だったようです。

参拝を終え柳川とはお別れです。昼食後、次なる目的地吉野ケ里遺跡へと向かいました。次はアルパパにバトンタッチです。

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