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2017'04.29 (Sat)

鳥取西部旅行 2

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

妻木晩田遺跡②
妻木晩田遺跡案内図

妻木山地区
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洞ノ原地区を見終わり、次に管理棟の東に位置する妻木山地区を見ました。
ここは、2世紀後半から3世紀前半の集落で、1つの小さな村を復元してあります。また、「発掘体感ひろば」もあり、発掘体験あそびができるようになっています。

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ここで、古代体験キャンプをしてみたら楽しそうだ。

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復元された中では一番大きいぐらいの住居です。本当にあったかどうかは判りませんが、中二階を作ってありました。結構、住み心地がよさそうですね。

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発掘体感ひろば
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こういうのがいくつもありますが、これは畳19畳もある大型住居跡です。2世紀後半ごろの建物ですから、フトニ大王が、吉備から出雲に攻込んで来た頃です。その頃は、この辺りが中心だったことになります。フトニ大王の出雲侵攻については、鳥取西部旅行 3で詳しく説明します。

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建物の中には、発掘現場が保存されています。

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ここには、2世紀後半から、3世紀前半にかけての 3つの住居跡が重なりあっています。同じ土地が繰り返し利用された様子が見て取れます。

土器の野焼き
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弥生式土器はこのようにして焼かれたのですね。


妻木新山地区
ここは、妻木晩田の里山を再現した地区で、復元住居等はありません。

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尾根筋の散策路が続きます。

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散策路の途中から、南に孝霊山を望む。左手に見えるのは妻木山地区の復元住居と発掘体感ひろばの建物。
孝霊山は、フトニ大王(孝霊天皇)がこの山の東麓に王宮を構えて住んだことから王の名に因んで付けられたものです。王宮は大山町宮内にあり、その跡には、高杉神社が建てられています。


仙谷地区
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妻木晩田地区の墓域は、洞ノ原地区 → 仙谷地区 → 松尾頭地区の順番に作られており、仙谷地区は2世紀末から3世紀前半に造られた墓域です。ということは、2世紀末から3世紀前半に掛けては、住居は妻木山地区に、墓は仙谷地区に造られていたことになります。古墳の内、仙谷1号墳は他の古墳と少し離れた場所にあり、一辺 17mの妻木晩田遺跡最大の四隅突出型墳丘墓だということですが、残念ながら、現在は発掘途中なのか立入り禁止になっています。

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仙谷2・3・5号墳は、日本海を一望する絶好のロケーションに造られています。


松尾地区・松尾頭地区
この二つの地区は、妻木晩田地区の南、大きな道路を隔てた向こうにあり、発掘途中なのか見ることはできませんが、管理棟「弥生のやかた」の展示物の中に垣間見ることができます。この遺跡群の最盛期であることが判ります。

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王族クラスの住居。ちゃんと立壁と立派な両開きの扉があります。

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神殿。巫女がご神託を告げている風景でしょうか。

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鉄器を作っている作業風景です。

松尾地区、松尾頭地区に復元住居ができて公開されたら、是非、また来たいと思います。

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冗談で「ムギパンダ」といっていたら、アル姉は最初はそう信じていたようでしたが、本当にパンダのキャラクターがあったので、ビックリ。

おまけ
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洞ノ原地区でヘビさん。天気もよかったので、蛇だって散歩がしたいのでしょう。
そして、新山地区を歩いていたときにも、アル姉が「ヘビッ!」というので、「どこに?」きょろきょろと見渡すと、何とすぐ足元に、しかもマムシ! 遊歩道と同じ色。「ヒェーッ」。 カメラを構える間もなく、草むらへ。いやぁー、本当、踏みつけなくてよかった。足元もしっかり見ないとね。

次は、フトニ大王の王宮跡に建つ、高杉神社です。

つづく。


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2017'04.27 (Thu)

2017年4月 鳥取西部旅行 1

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

3月の奈良旅行の次は、鳥取県の妻木晩田遺跡と春爛漫の鳥取花回廊に行こうと決めていたので、4/14・15と鳥取西部旅行に出かけました。

4月14日 妻木晩田(むきばんだ)遺跡 ①
朝から快晴。蒜山SAからの一枚。大山南壁はまだ雪を被っています。
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12:30ごろ妻木晩田遺跡に到着。妻木晩田遺跡は、鳥取県西伯郡大山町の日本海に近い小高い妻木山の上にあります。
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管理棟と名残りの桜。

妻木晩田遺跡 Wikipediaから抜粋引用。
妻木晩田遺跡群は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡。遺跡の面積は170ヘクタールにもなり、これは吉野ヶ里遺跡の 3倍におよぶ大規模なものである。大山山系・孝霊山から続く丘陵上に位置し、美保湾(日本海)を一望できる。島根県安来市から、この妻木晩田遺跡まで弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられる。(※コメント:古代出雲の中心地は、松江市~出雲市あたりだと思います。ここは東出雲王家の分家のあったところです)
標高 90-120メートル前後の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールの内、17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴住居 395基、掘建柱建物跡 502基、墳丘墓 24基、環壕等が検出されている。一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落であるが、比較的大規模で長期にわたる例は少ない。
集落は、概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成で、後期中頃以前には洞ノ原(どうのはら)地区の最西端に環壕が機能していたものと考えられる。また居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3-4棟の単位によって構成されるものと見られ、弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される建物跡も確認されている。
竪穴住居は、全部で 700ぐらいある。その中の大部分は小さくて深く、直径3-6メートル、深さ1メートルぐらいで、外から見ると屋根しか見えない。大きい竪穴住居は浅くて、直径6-8メートル、深さ0.5-0.7メートルぐらいで、外から見ても壁が見える。小さい方は土屋根で、大きい方は草葺き屋根であろうと推測出来る。さらに、大型建物のそばには、先に述べた大きい竪穴住居が必ずといっていいほどある。これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。弥生の終わりの3世紀中頃から4世紀ぐらいまでにかけて、有力者も竪穴住居に居住していたと思われる。
遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している。鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで 197点が出土してている。

妻木晩田遺跡案内図

洞ノ原地区
まずは、洞ノ原地区から見学します。ここでは、復元住居・復元倉庫と墳丘墓が見られます。
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看板の左下の赤丸はいたずら書きではなく、環濠の位置を示しています。

暫く歩いていくと、洞ノ原8号と名付けられた復元竪穴住居があります。1800年前というと、2世紀末か、3世紀初頭です。
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草屋根の上に土を被せてあり、これを土屋根というのですね。復元住居も沢山見てきましたが、こういうのは初めてです。屋根が腐らないのかな?
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黒い影は、ストロボの光によってできたレンズの影(ケラレ)です。横着して、ズーム一本で済まそうとすると、こうなります。

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洞ノ原地区の真ん中あたり、復元住居の西隣には、古墳があります。これは洞ノ原1号墳。説明板によると、紀元 0年ごろ、先ほどの住居より古墳の方が 200年ほど古い。既にあった古墳の隣に住居を立てたことになります。

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今は埋め戻されているので、その形は説明パネルの写真ほど明確には判りません。

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子供のものでしょうか。小さな古墳もあります。

四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓は古代出雲王国固有のもので、古墳の最初の形といわれています。その後、吉備地方の二方突出型墳丘墓(岡山県の楯突遺跡)を経て、前方後円墳へと形を変えつつ大型化していきます。
四隅が突出しているのは×印を表し、生命再生の意味です。

洞の原地区西端は環濠集落( 1世紀後半)となっており、復元した住居と倉庫が見られます。ここは、古墳より新しく、洞ノ原8号復元住居よりは古いということになります。
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環濠跡の一部は埋め戻しをせずに展示されていますが、意外に小さな濠です。外敵の侵入を防ぐ目的とすれば、これで役に立つのかな? という感じです。


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土屋根に草が生えています。この住居の周りには排水溝があります。

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高床式倉庫。この倉庫の下は平らで少し盛上がっていますが、古墳の上に立っているのだそうです。古代の人は、墓の隣だろうが、上だろうが無頓着だったのでしょうか。それとも、お墓とは気づかず、平で丁度恰好な土地があったと思ったのでしょうか。いずれにせよ、ちょっとした驚きでした。

この辺りが最も栄えたのは 2世紀後半まで。その後は建物は作られておらず、古墳時代には古墳が造られました。30基余りの古墳が認められており、晩田山古墳群といわれています。
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意識していなかったので、ちゃんとした写真を撮っていないのですが、この風景写真に写っている山の斜面のちょっとした土盛の一つひとつが小さな古墳だと思います。訪ねられる方がおられましたら、確認してみてください。

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この丘の上からは、弓ヶ浜と日本海、島根半島を一望できます。人家の密集した淀江の町は当時は砂州で、その内側は湖沼であったそうです。ここに住む人たちは、下の水田まで下りて米を作り、海まで行って漁労をするという生活していたのでしょう。戦さえなければのどかで平和な暮らしが想像されます。

この遺跡に住んでいたのは、東出雲王家の分家筋であったと言われていますが、当時は、後漢書東夷伝に倭国大乱と書かれた時期。この辺りも、激しい戦に巻き込まれてしまいます。詳しくは、鳥取西部旅行 3で改めて説明します。

つづく。


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2017'04.24 (Mon)

2017年3月・奈良旅行 今井町③

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担当:アル姉

3/19(日)


今井町その③です。
今井町散策マップ。
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中町筋からスタートです。
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旧米谷家(マップF)
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屋号は「米忠」、金物商を営んでいました。18世紀中頃の建物で後に、内蔵や蔵前座敷を増築したそうです。見学無料。

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説明看板。

内部。
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特徴的な形をしたかまどです。勾玉の形になっていて機能性を重視した造りになっています。

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煙出しが両面に開いているのは比較的新しい町屋なのだそうです。そう言えば今西家などは片側だけでしたね。

音村家
(マップE)
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屋号は「細九」、隣り合う旧米谷家と同じく金物商を営んでいました。見学は要予約で200円。17世紀後半に主屋が建てられ、だんだんと増築されていったようです。珍しい「一口竈」(出土した遺構をもとに復元)が置かれているそうですが、おそらく今井まちや館にあったかまどと同じタイプだと思います。

上田家
(マップD)
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今西家と同じく惣年寄りをつとめていました。見学は要予約。
屋号は「壷屋」。江戸時代初期には酒造業も営んでおり、有力商家と共に「今井札」を発行するほど優れた経済力を持っていました。大工町筋の南側に位置し、西面にも道があって角地に建っています。上の写真は西面の道から撮ったもの。

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写真左手が大工筋。棟札から1744年頃の建築と見られています。入母屋造、本瓦葺で、2階の軒は低く、内部は北側に土間、南側は整形六間取り。今西家と同じで周囲の町屋に比べるとかなり立派な造りになっています。時間があれば見学も考えたのですが、ここの時点で今井に来て既に2時間が経過していましたので却下となりました。

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大工町筋。このあたりまで来るとほとんど観光客がいません。

ここからは北尊坊通りです。
吉村家(旧上田家)(マップJ)
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屋号は「壷八」、飲み屋さんみたいですが肥料商を営んでいました。非公開。

山尾家(マップK)
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屋号は「新堂屋」。幕末には、町年寄を勤めた大商家。現在は今井まち衆博物館新堂屋として見学可能(要予約、400円)。明治10年明治天皇の今井行幸に随行した木戸孝允卿が投宿した時に使用した調度品まどが展示されているそうです。

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竹細工屋さんと銀行。銀行も町並みに溶け込むようなデザインにしてあるのでしょうが少々苦しいですね。

ここから中尊坊通り。
河合家(マップG)
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屋号は「上品寺屋(じょうぼんじや)」で酒造業を営んでおり、現在も造り酒屋さんとして営業なさっています。見学は1階だけなら100円、2階までなら300円(2階は要予約)。杉玉がいくつもぶらさがっていますね。丸窓もなんだか可愛らしい。今井町の中では二階建ての町屋は珍しく、18世紀中頃の比較的早く二階建てになった町屋だそうです。

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正面に回る前、建物の東側を見ているときに「ああ、造り酒屋さんだな」と思いました。

高木家(マップH)
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屋号を「大東の四条屋」と呼ばれる四条屋の分家、本家の酒造業を助け、後には醤油屋も併せて営んでいました。建物は19世紀頃の初期頃で、2階部分は19世紀末期に整備したものです。見学は要予約で300円。幕末期の上層町屋。

町の通りの半分も歩いていないし町屋の内部見学もあまりしていないのに気付けば3時間ほど経っていました。全然時間が足りません(苦笑)。今井町はおしゃれなカフェや土産物屋さんだらけの観光地(倉敷の美観地区はすっかりそんな感じです、苦笑)と違って静かで落ち着いた雰囲気なのが魅力の町でした。メインストリートよりも人々の生活観が感じられる路地なんかもなかなか味があって良いです。そう言えばアルママの大好きだった朝ドラ「あさが来た」のロケ地にもなっていたのだと帰ってから気付きました。「え~?町を歩いている時に教えて欲しかった~」と言われましたが気がつかなかったんだから仕方がないじゃない。また是非歩きたい町のひとつですね。

さぁ、これで1泊2日の旅行は終了です。朝から歩きっぱなしでまさに足が棒状態でしたが、車を置いたのが橿原神宮だったので後はもう黙々と歩きました。この日の万歩計は24,000歩。本当によく歩いた気がします。お疲れなのにこの後3時間以上アルキング号を運転して帰ってくれたアルパパには本当に脱帽と感謝です。いつも楽しい旅をありがとう。

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