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2017'02.11 (Sat)

庭瀬街歩き その②

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

1/22(日)

犬養毅生家と記念館の見学を終え、今度は街歩きです。駐車場は同じ場所を利用させてもらい、そのまま庭瀬城跡に向かって歩くことにしました。何の変哲もない普通の道を歩いてるだけなのですが知らない土地だと面白いですね。

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富山の置き薬の会社があったり、お庭でニワトリを飼っているお宅があったり、なかなか新鮮です。

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庭瀬界隈のマップです。黄色いルートで回りました。

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やがて庭瀬往来の町並み保存地区に到着。

庭瀬往来(鴨方往来)は、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。沿道には当時の面影を残す寺社や白壁の商家が並んでいます。金比羅への道を示した石の道標や石灯籠(常夜灯)も多く残っています。

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お薬屋さんだったのですね。

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江戸時代創業の醤油やさん。

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庭瀬城の大手門だった場所。手前に町家、橋の奥に侍屋敷が並んでいました。左手には旧庭瀬港があります。

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平成19年に復元された旧庭瀬港と常夜灯。

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説明看板。

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「右 こんぴら」「左 吉備津」 もう一つはなんて読むのかしら。

庭瀬城跡
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住宅地の中にある水堀に囲まれた庭瀬城跡。

庭瀬城の築城については撫川城跡と一緒に後述します。江戸時代には庭瀬藩主の戸川逹安公2万9千石の居城となり、周囲に水を湛えた自然石の石垣に囲まれた典型的な沼城であったそうです。江戸時代初頭、四代安風亡き後廃藩となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋となりました。

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手前の中ノ島には八幡宮・弁財天・正一位 出世稲荷大明神が祀られています。

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庭瀬城跡の碑。

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奥にあるのは清山神社。庭瀬藩藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩が祭神です。

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水掘には庭瀬出身の大賀一郎博士によって発見された大賀ハスが植えられています。

続いて撫川(なつかわ)城跡を目指します。
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道中で見つけた撫川うちわの看板。撫川うちわ製作技術を再興した坂野定香・定和父子の邸宅があったはずなのですが、今は更地になっていました。現在でも撫川うちわは「三杉堂」が中心となって、技術の伝承と後継者育成に取り組んでいるそうです。夏が近くなるとローカルニュースでよくやっていますね。

撫川城跡
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住宅地の中に現れた水掘と撫川城跡。典型的な沼城。築城は永禄2年(1559年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせたとされます。

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説明看板。

撫川城と庭瀬城は戦国時代は1つの城であったと思われ、二つに分かれたのは江戸時代のことと言われています。慶長2年(1602年)戸川逹安が、東の庭瀬城跡の初代藩主として2万9千石を与えられたことにより中心は二ノ丸(庭瀬城)に移ります。延宝2年(1679年)、戸川逹冨が5千石を知行した時、城郭を割り、本丸と三の丸を合わせて撫川城を中心に撫川陣屋を置き、現在の二つの城跡の呼び名のもととなったようです。

天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際には、毛利方の国境防備の城「備中境目七城」の一つとなり撫川城(庭瀬城)だけは秀吉の攻撃に耐え、1582年に毛利氏と羽柴氏が和睦するまで落城しなかったと言われています。境目七城は冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城(庭瀬城)。昨年の夏に備中高松城にも行ってきたのでまたそのうち記事をあげたいと思います。

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現存する野面積の石垣もなかなか見事。

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入口にある門は撫川陣屋総門を明治になって現在地に移築したもの。城跡公園には三神社と呼ばれる神社が祀られています。

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撫川城跡をあとに再び庭瀬往来へ。またもや道標がありました。

こちらは庭瀬往来にある町並み歴史ギャラリー
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庭瀬周辺の歴史についてのパネルがたくさんあり勉強になります。

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法万寺川にあった石灯籠は隣の信城寺に移設されて残されていました。

パンフレットにあったお勧めコースをだいぶショートカットしてしまいましたが庭瀬周辺を歩くのは初めてだったのでとても新鮮で楽しかったです。住宅地にありますが庭瀬城跡には広い駐車スペースもありました。また今度改めて行ってみようかな。
※庭瀬界隈の情報は@タウン吉備さんに詳しく載っています。

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2017'02.05 (Sun)

庭瀬街歩き その①

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

1/22(日)

今年初めてのアルキング号の出動はとても近場ですが岡山市北区「庭瀬」でした。庭瀬の街並みと庭瀬城跡・撫川城跡が目的ですが、周辺に犬養毅(木堂)の生家と記念館があるのでまずはそちらへ向かいます。

犬養毅とは?
犬養毅は岡山県出身の政治家。号は木堂。慶応義塾に学び、西南戦争の折には従軍記者を務める。明治15年立憲改進党の結成に加わり、明治23年(1890年)、帝国議会開設に伴う第1回衆院選の岡山3区で当選以来、五・一五事件で暗殺されるまで連続18回当選。政党政治の確立と普通選挙制度の実現に尽力し、大正期の憲政擁護運動でも活躍し、憲政の神様と呼ばれた政治家でした。

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川入交差点そば(新幹線高架横)に立派な駐車場があります。

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駐車場から少し離れていて道がややわかりにくいという話を聞いたことがありますが「木堂こみち」の看板やプレートでしっかり道案内されているので迷わずにたどり着けました。
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表門

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初当選の記念に植樹したというクスノキが立派に枝を広げています。

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国指定重要文化財 犬養木堂生家
犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。
明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。
昭和6年(1931)内閣総理大臣となったが、翌年の5月15日首相官邸において兇徒に襲われ、
「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。
犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代中期に建てられたものである。
この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。
老朽化がはなはだしかったため、昭和54年(1979)解体復元したものである。

(現地案内板より)

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手前から上端・中の間・座敷

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台所

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蔵前

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蔵、井戸、木堂塾。

大庄屋の家ということもあってなかなか立派なお家です。明治元年、木堂が13歳の時に父が病死し、脇の部屋で近所の子供たちに教えていたというエピソードが残っており、木堂塾はそのエピソードにちなんで昭和56年に建てられた新しい建物です。10歳で経学を修め、13歳で塾を開いていたというのですから驚きです。その後まもなく倉敷へ出てしまったそうなので、この生家で過ごしたのは少年期までということになりますね。

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小川を挟んで生家の横に建てられた記念館です。入館料は無料。毎週火曜日定休。比較的新しい印象で平成5年の開館だそうです。

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中庭も綺麗。常設展では直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、五・十五事件のとき血染めの座布団などが展示されています。血染めの座布団はちょっと生々しくてびっくりしますね。20分ほどのDVDも視聴でき、生い立ちから暗殺に至るまでの木堂の生き様を学ぶことができます。

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大正14年(1925年)、普通選挙法が通過、成立すると、犬養毅は政界引退を発表し、長野県の白林荘で隠遁の身となりました。しかし、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が勝手に立候補させ当選、犬養はこれをやむなく受諾しますが、政界ではあまり活躍せず白林荘で過ごす時間が多かったのだそうです。しかし、昭和4年(1929年)、田中義一の急死により、犬養毅が政友会総裁に就任昭和6年(1931年)76歳にして第29代内閣総理大臣となり犬養内閣を発足。五・一五事件で凶弾に倒れるのはその翌年のことでした。

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五・一五事件、教科書で習いましたよね。昭和7年(1932年)、5月15日首相官邸にて海軍青年将校らが侵入し、犬養毅がその凶弾に倒れた事件です。このときの「話せばわかる」という言葉は有名でしたが、私はこれを命乞いのような言葉だと勘違いしていたことがあります。字面だけをとらえるとそう思ってしまいますよね。ところが実際は・・・

官邸に侵入した将校の一人は出会い頭に引き金を引いたが不発におわります。それに対して木堂は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう、ついて来い」と彼らを引き入れ話をしようとしたのです。その後3発の銃弾を受け、駆けつけた女中に対して言ったのが「今の若造を連れ戻せ、話して聞かせることがある」という言葉だったのだそうです。

自分が撃たれたあともなお「話せばわかる、話をしよう」と言えるものなのでしょうか。木堂の「話すこと、議すること」を信条とする心の強さにとても驚かされました。

記念館では昭和7年の総選挙の為に録音したレコードで木堂の肉声を聞くこともできました。

YouTubeにあげられているものもありますのでリンクを載せておきます。

そう言えばこんなポスターがありました。
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交通安全のポスターのようですが、いまいち意図がわからない起用です(苦笑)

この後は庭瀬の街歩きですが、長くなったのでまた次回。

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