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2017'03.17 (Fri)

鴨方町歩き その②

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉
2/12(日)

2回にわけるほどでもなかったかな(苦笑)
その②ではかもがた町屋公園周辺のスポットの紹介です。
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町屋公園にあった看板。

鴨神社
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平安時代に京都の加茂大明神を勧請して建立されたと伝えられています。
その①で紹介した宮の石橋で有名です。

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拝殿。

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本殿。

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鴨神社のある稲荷山の山頂に忠魂碑と広場。

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風が強く肌寒いもののなかなかの眺めでした。

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下まで降りて・・・鴨方往来にある鳥居。

浄光寺
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浄土宗鎮西派のお寺。

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浄光寺の向かいには、西山拙斎の居宅至楽居跡と私塾欽塾跡の看板。 西山拙斎は、「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋」と歌われる江戸時代後期の儒学者。

鴨方陣屋跡
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現在は黒住教となっているようです。

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石垣と井戸は当時のもの。黒住教と書いてあったので入らなかったのですが井戸があったのならちょっと見てみればよかったな。

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鴨方陣屋跡の背後の鴨山は備中守護職細川氏の居城であった鴨山城跡です。昔は石が転がってるだけで何もなかったのだけど、今は城跡らしくわかるように整備されているという話だったので今度来たときは山頂まで行ってみます。

長川寺
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曹洞宗の禅寺。室町時代には鴨山城主細川氏の菩提寺となりました。

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長川寺の境内にある龍宮門。旧正伝寺の山門で、明治から昭和にかけては鴨方高等学校が建っており、校門として使われていました。

西山拙斎の碑と墓
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西山家の墓所にある西山拙斎の頌徳碑と墓。

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説明看板。

その他
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現在の鴨方往来。

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少々肌寒い日でしたがそこかしこに春を感じられる町歩きでした。

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21:31  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2017'03.04 (Sat)

鴨方街歩き その①

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

庭瀬に続いて鴨方へ行ってきました。前回紹介した庭瀬往来は鴨方往来の沿線です。

2/12(日)
かもがた町家公園
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江戸時代の岡山藩と鴨方支藩を結ぶ官道であった鴨方往来沿いに、 2棟の町家や土蔵などを修復した公園で、100名ほどのボランティアスタッフによって運営されているそうです。
公式ホームページはこちら

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マップ。

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手前が遊びの広場。奥の方には伝統植物園がありますが公園が完成した当時はまだ孟宗竹に覆われていたそうです。

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懐かしい竹の遊具です。何とかまだ竹馬に乗れるだけのバランス感覚はありました。

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ふれあいの館と井戸。

かもがた町屋公園の中核となっているのはこちら。
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旧高戸家住宅。伝承館という有料見学できる施設になっています。有料と言っても大人100円、無料でガイドさんが案内してくれるので是非入ってみてください。
江戸時代鴨方藩の庄屋を世襲し油商を営んだ家で、出身が奈良県今井町ということもあって大和様式と備中様式を合わせた建築工法が用いられているそうです。ちなみにここは 江戸時代の貞享4年(1687年)の修理棟札から築後300年以上を経ていることがわかっており、岡山県最古の町屋だとされています。

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パンフレットから間取りなど。

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旧高戸家住宅の案内板。

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みせどまの大戸口の格子戸。大きなものを入れるときには格子戸の枠そのものが開くようになっています。格子構は「切子付親子格子」と呼ばれる特殊な意匠なのだそうです。内側にある片折れの板戸なども戸が大きいがゆえの構造となっていて面白いです。

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店の間の格子。ここで商いをしていたのですね。

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式台。いわゆる式台玄関ですが、士農工商などの時代には商人の家に式台があるというのはよろしくないということで、隠すための覆いがあったのだとボランティアの方がおっしゃっていました。

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奥にある座敷の襖絵は倉敷市船穂出身の画人小野雲鵬によるもの。蔵に保管されていたためとても色鮮やかなまま残っていたそうです。鹿の毛並みなど細やかで見事でした。今はこうして普通に飾られているのですが、焼けちゃって劣化するんじゃないかと心配になっちゃいますね。

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欄間も美しいですね。

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ちなみにこの高戸家の壁土なのですが、綺麗なピンク色をしていますよね。これは鉄の含有量の多い遥照山の土を使っているのだそうです。

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お庭。飛び石の先には御成門があります。

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通りから見た御成門。藩主が出入りに使ったとされる門です。

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かまばにある置きくど。台所です。こんな大きな台所は岡山の町屋では珍しいんですって。持ち運びが可能になっているのも大和風の特徴。

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天井部分からは煙が出て行くようになっており、かまばの勝手口はとても広く置きくどが持ち出せる幅になっています。

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かまばから。奥が店土間・店の間、手前は内庭と居間。

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江戸時代の数の暗号なども展示されていましたがとんちが聞いていて面白いですよね。

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わかり辛いのですが、公園として整備する前の旧高戸家の様子を写したものです。復元修理前はやはりかなりボロボロだったようですね。

さて、外へ。
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もう一つの町屋は棟札から延享5年(1748)に建てられたもので、分家の母屋。交流館として利用されています。この日は岡大の落研のまちや寄席が催されており、中から軽妙な落語と楽しそうな笑い声が漏れていました。

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交流館裏手。まちや亭という和風喫茶があります。

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書状集箱。明治初期に使用していたものと同じ型のポストで実際に使用されているのだそうです。面白い。

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公園北側の展望台から。

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公園の北側にある宮の石橋。「鴨方に過ぎたるものが三つある拙斎、索我、宮の石橋」と昔から里謡にうたわれているもののひとつです。長い板状の石6枚を反らせて造られた太鼓橋。手前には田中索我(江戸の絵師)の墓碑があるのですが写真にはおさめていませんでした。

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別角度。この石橋は鴨方往来から鴨神社に参拝する参道となっているのです。立体交差している付近の小字名は「鴨之下通」。

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この上が鴨神社。

鴨神社と公園周辺についてはまた次回。
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19:43  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017'02.11 (Sat)

庭瀬街歩き その②

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担当:アル姉

1/22(日)

犬養毅生家と記念館の見学を終え、今度は街歩きです。駐車場は同じ場所を利用させてもらい、そのまま庭瀬城跡に向かって歩くことにしました。何の変哲もない普通の道を歩いてるだけなのですが知らない土地だと面白いですね。

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富山の置き薬の会社があったり、お庭でニワトリを飼っているお宅があったり、なかなか新鮮です。

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庭瀬界隈のマップです。黄色いルートで回りました。

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やがて庭瀬往来の町並み保存地区に到着。

庭瀬往来(鴨方往来)は、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。沿道には当時の面影を残す寺社や白壁の商家が並んでいます。金比羅への道を示した石の道標や石灯籠(常夜灯)も多く残っています。

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お薬屋さんだったのですね。

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江戸時代創業の醤油やさん。

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庭瀬城の大手門だった場所。手前に町家、橋の奥に侍屋敷が並んでいました。左手には旧庭瀬港があります。

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平成19年に復元された旧庭瀬港と常夜灯。

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説明看板。

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「右 こんぴら」「左 吉備津」 もう一つはなんて読むのかしら。

庭瀬城跡
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住宅地の中にある水堀に囲まれた庭瀬城跡。

庭瀬城の築城については撫川城跡と一緒に後述します。江戸時代には庭瀬藩主の戸川逹安公2万9千石の居城となり、周囲に水を湛えた自然石の石垣に囲まれた典型的な沼城であったそうです。江戸時代初頭、四代安風亡き後廃藩となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋となりました。

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手前の中ノ島には八幡宮・弁財天・正一位 出世稲荷大明神が祀られています。

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庭瀬城跡の碑。

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奥にあるのは清山神社。庭瀬藩藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩が祭神です。

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水掘には庭瀬出身の大賀一郎博士によって発見された大賀ハスが植えられています。

続いて撫川(なつかわ)城跡を目指します。
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道中で見つけた撫川うちわの看板。撫川うちわ製作技術を再興した坂野定香・定和父子の邸宅があったはずなのですが、今は更地になっていました。現在でも撫川うちわは「三杉堂」が中心となって、技術の伝承と後継者育成に取り組んでいるそうです。夏が近くなるとローカルニュースでよくやっていますね。

撫川城跡
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住宅地の中に現れた水掘と撫川城跡。典型的な沼城。築城は永禄2年(1559年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせたとされます。

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説明看板。

撫川城と庭瀬城は戦国時代は1つの城であったと思われ、二つに分かれたのは江戸時代のことと言われています。慶長2年(1602年)戸川逹安が、東の庭瀬城跡の初代藩主として2万9千石を与えられたことにより中心は二ノ丸(庭瀬城)に移ります。延宝2年(1679年)、戸川逹冨が5千石を知行した時、城郭を割り、本丸と三の丸を合わせて撫川城を中心に撫川陣屋を置き、現在の二つの城跡の呼び名のもととなったようです。

天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際には、毛利方の国境防備の城「備中境目七城」の一つとなり撫川城(庭瀬城)だけは秀吉の攻撃に耐え、1582年に毛利氏と羽柴氏が和睦するまで落城しなかったと言われています。境目七城は冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城(庭瀬城)。昨年の夏に備中高松城にも行ってきたのでまたそのうち記事をあげたいと思います。

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現存する野面積の石垣もなかなか見事。

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入口にある門は撫川陣屋総門を明治になって現在地に移築したもの。城跡公園には三神社と呼ばれる神社が祀られています。

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撫川城跡をあとに再び庭瀬往来へ。またもや道標がありました。

こちらは庭瀬往来にある町並み歴史ギャラリー
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庭瀬周辺の歴史についてのパネルがたくさんあり勉強になります。

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法万寺川にあった石灯籠は隣の信城寺に移設されて残されていました。

パンフレットにあったお勧めコースをだいぶショートカットしてしまいましたが庭瀬周辺を歩くのは初めてだったのでとても新鮮で楽しかったです。住宅地にありますが庭瀬城跡には広い駐車スペースもありました。また今度改めて行ってみようかな。
※庭瀬界隈の情報は@タウン吉備さんに詳しく載っています。

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13:52  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(5)  |  EDIT  |  Top↑

2017'02.05 (Sun)

庭瀬街歩き その①

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使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

1/22(日)

今年初めてのアルキング号の出動はとても近場ですが岡山市北区「庭瀬」でした。庭瀬の街並みと庭瀬城跡・撫川城跡が目的ですが、周辺に犬養毅(木堂)の生家と記念館があるのでまずはそちらへ向かいます。

犬養毅とは?
犬養毅は岡山県出身の政治家。号は木堂。慶応義塾に学び、西南戦争の折には従軍記者を務める。明治15年立憲改進党の結成に加わり、明治23年(1890年)、帝国議会開設に伴う第1回衆院選の岡山3区で当選以来、五・一五事件で暗殺されるまで連続18回当選。政党政治の確立と普通選挙制度の実現に尽力し、大正期の憲政擁護運動でも活躍し、憲政の神様と呼ばれた政治家でした。

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川入交差点そば(新幹線高架横)に立派な駐車場があります。

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駐車場から少し離れていて道がややわかりにくいという話を聞いたことがありますが「木堂こみち」の看板やプレートでしっかり道案内されているので迷わずにたどり着けました。
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表門

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初当選の記念に植樹したというクスノキが立派に枝を広げています。

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国指定重要文化財 犬養木堂生家
犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。
明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。
昭和6年(1931)内閣総理大臣となったが、翌年の5月15日首相官邸において兇徒に襲われ、
「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。
犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代中期に建てられたものである。
この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。
老朽化がはなはだしかったため、昭和54年(1979)解体復元したものである。

(現地案内板より)

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手前から上端・中の間・座敷

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台所

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蔵前

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蔵、井戸、木堂塾。

大庄屋の家ということもあってなかなか立派なお家です。明治元年、木堂が13歳の時に父が病死し、脇の部屋で近所の子供たちに教えていたというエピソードが残っており、木堂塾はそのエピソードにちなんで昭和56年に建てられた新しい建物です。10歳で経学を修め、13歳で塾を開いていたというのですから驚きです。その後まもなく倉敷へ出てしまったそうなので、この生家で過ごしたのは少年期までということになりますね。

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小川を挟んで生家の横に建てられた記念館です。入館料は無料。毎週火曜日定休。比較的新しい印象で平成5年の開館だそうです。

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中庭も綺麗。常設展では直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、五・十五事件のとき血染めの座布団などが展示されています。血染めの座布団はちょっと生々しくてびっくりしますね。20分ほどのDVDも視聴でき、生い立ちから暗殺に至るまでの木堂の生き様を学ぶことができます。

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大正14年(1925年)、普通選挙法が通過、成立すると、犬養毅は政界引退を発表し、長野県の白林荘で隠遁の身となりました。しかし、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が勝手に立候補させ当選、犬養はこれをやむなく受諾しますが、政界ではあまり活躍せず白林荘で過ごす時間が多かったのだそうです。しかし、昭和4年(1929年)、田中義一の急死により、犬養毅が政友会総裁に就任昭和6年(1931年)76歳にして第29代内閣総理大臣となり犬養内閣を発足。五・一五事件で凶弾に倒れるのはその翌年のことでした。

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五・一五事件、教科書で習いましたよね。昭和7年(1932年)、5月15日首相官邸にて海軍青年将校らが侵入し、犬養毅がその凶弾に倒れた事件です。このときの「話せばわかる」という言葉は有名でしたが、私はこれを命乞いのような言葉だと勘違いしていたことがあります。字面だけをとらえるとそう思ってしまいますよね。ところが実際は・・・

官邸に侵入した将校の一人は出会い頭に引き金を引いたが不発におわります。それに対して木堂は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう、ついて来い」と彼らを引き入れ話をしようとしたのです。その後3発の銃弾を受け、駆けつけた女中に対して言ったのが「今の若造を連れ戻せ、話して聞かせることがある」という言葉だったのだそうです。

自分が撃たれたあともなお「話せばわかる、話をしよう」と言えるものなのでしょうか。木堂の「話すこと、議すること」を信条とする心の強さにとても驚かされました。

記念館では昭和7年の総選挙の為に録音したレコードで木堂の肉声を聞くこともできました。

YouTubeにあげられているものもありますのでリンクを載せておきます。

そう言えばこんなポスターがありました。
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交通安全のポスターのようですが、いまいち意図がわからない起用です(苦笑)

この後は庭瀬の街歩きですが、長くなったのでまた次回。

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2016'12.02 (Fri)

石上布都魂神社・宇甘渓

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担当:アルパパ

11/20(日)

島根旅行記の更新中ですが、ちょっと割込みです。

【石上布都魂神社】・・・岡山県赤磐市石上
ご祭神・・・素盞鳴尊
島根旅行 Part7 の中で、二振りの刀、宇美神社のご祭神 布都御魂(フツノミタマ)と、スサノオがオロチ退治に使った 布都斯御魂(フツシノミタマ)について触れましたが、フツシノミタマは、その昔、島根県ではなく、アル一家の住む岡山県のある神社に、ご祭神として祀られていました。その神社は、岡山県赤磐市石上にある石上布都魂(イソノカミフツノミタマ)神社といいます。アル一家は、この神社にお参りしたことがなかったので、晩秋の一日、紅葉狩りも兼ねてお参りすることにしました。

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石上布都魂神社の社伝には、日本書紀に、素盞鳴命が出雲国で八岐大蛇を退治して大蛇の尾から草薙剣を取り出した後、『一書曰 その素盞鳴命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(カムトモノヲ=神主)の許に在り』と記されているが、吉備の神部とは当社のことであると記されているそうです。
現在は、この刀は奈良県天理市の石上神宮の本殿に奉安されていますが、岡山藩士の大沢惟貞が寛政年間(1789--1801)に編纂した“吉備湯古泌録”には、記紀をはじめ古代の文献を考証して、素盞鳴命が剣を納めた社は吉備の当社に間違いなく、崇神天皇の御代に大和に移したとしています。

そして、現在、石上神宮ではフツシノミタマとされる鉄刀が、布都御魂剣とともに本殿内陣に奉安され祀られていますが、明治11年(1878年)、石上神宮で、本殿建造のため禁足地を発掘した際、全長120cmの片刃の刀が出土し、これをフツシノミタマであると認定し、一緒に奉安したものです。

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【スサノオの刀が、何故、吉備の当社に納められたのか?】
当然、こういう疑問が湧くと思います。以前の記事、「温羅伝説を訪ねて・中編」に、吉備の温羅は出雲系渡来人ではないか、更に、吉備国にあったと思われる出雲族の痕跡は意識的に消されているようだと書きましたが、アルパパは、この刀が、その謎を解く鍵ではないかと思います。
日本初の統一王朝を大和に打ちたてたのは、スサノオの子、ニギハヤヒですが、その後、ニギハヤヒは、九州から東進して来た神武に、あっさりと王朝を譲り渡し、ここに大和王朝が成立しました。
ニギハヤヒが大和に進出した経路は不明ですが、スサノオの刀が、吉備のこの神社に奉納されていたということは、単純に考えれば、ニギハヤヒは、出雲から山を越えて気候の温暖な吉備に進出してここを治め、次に大和を目指したのではないでしょうか。
その後、権力を掌握した大和政権は、各地の王国の討伐に乗り出し、その形跡を抹消していきます。吉備の歴史も、その過程で、闇に葬られたとすれば、辻褄が合います。アルパパ的には、これでよしという感じですが、まあ、妄想と思っていただければ結構です。

また、宇美神社のところでも書いたように、ここでも、フツノミタマとフツシノミタマの混同があります。この神社に奉安されていた刀は、フツシノミタマですから、本来は、神社の名前も、イソノカミフツシノミタマ神社の方が正しいのかも知れません。

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「物部」といえば、島根旅行で訪ねた物部神社や奈良県天理市の石上神宮(物部氏の氏神)が有名ですが、この石上布都魂神社にも、「物部」の文字が? 何故と思って、後で調べたところ、何と、宮司さんのお名前が物部さんだということです。宮司さんは物部氏の子孫? その時にピンとくれば、お聞きしたのですが・・・。

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その宮司さんに、フツシノミタマを模した木刀を見せていただきました。刃は下側、日本刀とはソリが逆ですね。これは、大陸、半島系の刀の特徴です。昭和の初めごろに、フツシノミタマのレプリカが3振り造られており、その内の1振りは、この神社に収められています。それを元に、この木刀を作ったのでしょう。

さて、この神社には、奥宮があります。拝殿から、坂道を登ること10分ぐらいで、鳥居とその向こうに小さなお社が見えてきます。
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お社は、大きな磐座の前に建てられており、磐座全体は禁足地になっています。ここは、古代の磐座信仰の場です。みんなで、磐座に向かって両手を上げ、エネルギーを感じているいるグループがいました。

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江戸時代には、拝殿・本殿があったようですね。

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山間の小さな神社ですが、参拝者は多くはありませんが、途切れることなく続いていました。パワースポットを紹介した本に載ってから、参拝者が増えたのでしょうか。小さな休憩所には、宮司さんと奥さんがおられ、温かく迎えてくれます。小さいけれども、気持ちのよい神社です。


【宇甘渓】・・・岡山県加賀郡吉備中央町下加茂
石上布都魂神社へお参りする前に、宇甘渓に寄って、名残りの紅葉を見てきました。一週間遅いという感じですが、一週間前は38.3℃の熱を出していましたので、仕方ありません。では、今年の紅葉のご紹介。

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では、島根旅行記の続き Part10に戻ります。


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