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2017'02.11 (Sat)

庭瀬街歩き その②

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担当:アル姉

1/22(日)

犬養毅生家と記念館の見学を終え、今度は街歩きです。駐車場は同じ場所を利用させてもらい、そのまま庭瀬城跡に向かって歩くことにしました。何の変哲もない普通の道を歩いてるだけなのですが知らない土地だと面白いですね。

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富山の置き薬の会社があったり、お庭でニワトリを飼っているお宅があったり、なかなか新鮮です。

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庭瀬界隈のマップです。黄色いルートで回りました。

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やがて庭瀬往来の町並み保存地区に到着。

庭瀬往来(鴨方往来)は、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。沿道には当時の面影を残す寺社や白壁の商家が並んでいます。金比羅への道を示した石の道標や石灯籠(常夜灯)も多く残っています。

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お薬屋さんだったのですね。

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江戸時代創業の醤油やさん。

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庭瀬城の大手門だった場所。手前に町家、橋の奥に侍屋敷が並んでいました。左手には旧庭瀬港があります。

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平成19年に復元された旧庭瀬港と常夜灯。

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説明看板。

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「右 こんぴら」「左 吉備津」 もう一つはなんて読むのかしら。

庭瀬城跡
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住宅地の中にある水堀に囲まれた庭瀬城跡。

庭瀬城の築城については撫川城跡と一緒に後述します。江戸時代には庭瀬藩主の戸川逹安公2万9千石の居城となり、周囲に水を湛えた自然石の石垣に囲まれた典型的な沼城であったそうです。江戸時代初頭、四代安風亡き後廃藩となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋となりました。

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手前の中ノ島には八幡宮・弁財天・正一位 出世稲荷大明神が祀られています。

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庭瀬城跡の碑。

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奥にあるのは清山神社。庭瀬藩藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩が祭神です。

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水掘には庭瀬出身の大賀一郎博士によって発見された大賀ハスが植えられています。

続いて撫川(なつかわ)城跡を目指します。
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道中で見つけた撫川うちわの看板。撫川うちわ製作技術を再興した坂野定香・定和父子の邸宅があったはずなのですが、今は更地になっていました。現在でも撫川うちわは「三杉堂」が中心となって、技術の伝承と後継者育成に取り組んでいるそうです。夏が近くなるとローカルニュースでよくやっていますね。

撫川城跡
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住宅地の中に現れた水掘と撫川城跡。典型的な沼城。築城は永禄2年(1559年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせたとされます。

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説明看板。

撫川城と庭瀬城は戦国時代は1つの城であったと思われ、二つに分かれたのは江戸時代のことと言われています。慶長2年(1602年)戸川逹安が、東の庭瀬城跡の初代藩主として2万9千石を与えられたことにより中心は二ノ丸(庭瀬城)に移ります。延宝2年(1679年)、戸川逹冨が5千石を知行した時、城郭を割り、本丸と三の丸を合わせて撫川城を中心に撫川陣屋を置き、現在の二つの城跡の呼び名のもととなったようです。

天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際には、毛利方の国境防備の城「備中境目七城」の一つとなり撫川城(庭瀬城)だけは秀吉の攻撃に耐え、1582年に毛利氏と羽柴氏が和睦するまで落城しなかったと言われています。境目七城は冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城(庭瀬城)。昨年の夏に備中高松城にも行ってきたのでまたそのうち記事をあげたいと思います。

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現存する野面積の石垣もなかなか見事。

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入口にある門は撫川陣屋総門を明治になって現在地に移築したもの。城跡公園には三神社と呼ばれる神社が祀られています。

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撫川城跡をあとに再び庭瀬往来へ。またもや道標がありました。

こちらは庭瀬往来にある町並み歴史ギャラリー
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庭瀬周辺の歴史についてのパネルがたくさんあり勉強になります。

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法万寺川にあった石灯籠は隣の信城寺に移設されて残されていました。

パンフレットにあったお勧めコースをだいぶショートカットしてしまいましたが庭瀬周辺を歩くのは初めてだったのでとても新鮮で楽しかったです。住宅地にありますが庭瀬城跡には広い駐車スペースもありました。また今度改めて行ってみようかな。
※庭瀬界隈の情報は@タウン吉備さんに詳しく載っています。

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13:52  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2017'02.05 (Sun)

庭瀬街歩き その①

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担当:アル姉

1/22(日)

今年初めてのアルキング号の出動はとても近場ですが岡山市北区「庭瀬」でした。庭瀬の街並みと庭瀬城跡・撫川城跡が目的ですが、周辺に犬養毅(木堂)の生家と記念館があるのでまずはそちらへ向かいます。

犬養毅とは?
犬養毅は岡山県出身の政治家。号は木堂。慶応義塾に学び、西南戦争の折には従軍記者を務める。明治15年立憲改進党の結成に加わり、明治23年(1890年)、帝国議会開設に伴う第1回衆院選の岡山3区で当選以来、五・一五事件で暗殺されるまで連続18回当選。政党政治の確立と普通選挙制度の実現に尽力し、大正期の憲政擁護運動でも活躍し、憲政の神様と呼ばれた政治家でした。

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川入交差点そば(新幹線高架横)に立派な駐車場があります。

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駐車場から少し離れていて道がややわかりにくいという話を聞いたことがありますが「木堂こみち」の看板やプレートでしっかり道案内されているので迷わずにたどり着けました。
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表門

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初当選の記念に植樹したというクスノキが立派に枝を広げています。

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国指定重要文化財 犬養木堂生家
犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。
明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。
昭和6年(1931)内閣総理大臣となったが、翌年の5月15日首相官邸において兇徒に襲われ、
「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。
犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代中期に建てられたものである。
この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。
老朽化がはなはだしかったため、昭和54年(1979)解体復元したものである。

(現地案内板より)

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手前から上端・中の間・座敷

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台所

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蔵前

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蔵、井戸、木堂塾。

大庄屋の家ということもあってなかなか立派なお家です。明治元年、木堂が13歳の時に父が病死し、脇の部屋で近所の子供たちに教えていたというエピソードが残っており、木堂塾はそのエピソードにちなんで昭和56年に建てられた新しい建物です。10歳で経学を修め、13歳で塾を開いていたというのですから驚きです。その後まもなく倉敷へ出てしまったそうなので、この生家で過ごしたのは少年期までということになりますね。

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小川を挟んで生家の横に建てられた記念館です。入館料は無料。毎週火曜日定休。比較的新しい印象で平成5年の開館だそうです。

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中庭も綺麗。常設展では直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、五・十五事件のとき血染めの座布団などが展示されています。血染めの座布団はちょっと生々しくてびっくりしますね。20分ほどのDVDも視聴でき、生い立ちから暗殺に至るまでの木堂の生き様を学ぶことができます。

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大正14年(1925年)、普通選挙法が通過、成立すると、犬養毅は政界引退を発表し、長野県の白林荘で隠遁の身となりました。しかし、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が勝手に立候補させ当選、犬養はこれをやむなく受諾しますが、政界ではあまり活躍せず白林荘で過ごす時間が多かったのだそうです。しかし、昭和4年(1929年)、田中義一の急死により、犬養毅が政友会総裁に就任昭和6年(1931年)76歳にして第29代内閣総理大臣となり犬養内閣を発足。五・一五事件で凶弾に倒れるのはその翌年のことでした。

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五・一五事件、教科書で習いましたよね。昭和7年(1932年)、5月15日首相官邸にて海軍青年将校らが侵入し、犬養毅がその凶弾に倒れた事件です。このときの「話せばわかる」という言葉は有名でしたが、私はこれを命乞いのような言葉だと勘違いしていたことがあります。字面だけをとらえるとそう思ってしまいますよね。ところが実際は・・・

官邸に侵入した将校の一人は出会い頭に引き金を引いたが不発におわります。それに対して木堂は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう、ついて来い」と彼らを引き入れ話をしようとしたのです。その後3発の銃弾を受け、駆けつけた女中に対して言ったのが「今の若造を連れ戻せ、話して聞かせることがある」という言葉だったのだそうです。

自分が撃たれたあともなお「話せばわかる、話をしよう」と言えるものなのでしょうか。木堂の「話すこと、議すること」を信条とする心の強さにとても驚かされました。

記念館では昭和7年の総選挙の為に録音したレコードで木堂の肉声を聞くこともできました。

YouTubeにあげられているものもありますのでリンクを載せておきます。

そう言えばこんなポスターがありました。
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交通安全のポスターのようですが、いまいち意図がわからない起用です(苦笑)

この後は庭瀬の街歩きですが、長くなったのでまた次回。

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19:03  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017'01.18 (Wed)

三輪山登拝 その4

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担当:アルパパ

大神神社の注連縄
何度か記事に名を出したAさんですが、Aさんによると、注連縄を逆向きに絞めてある神社は、神様をそこに封じ込めてあることが多いそうです。代表的な例は、大神神社、出雲大社であると聞いていましたので、今回は、これを確認するのも目的の一つです。

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大神神社の注連縄です。両端を大写しすると、左元、右先になっていますが、これが逆締めです。なるほど、確認しました。

こうした神々の封じ込めが行なわれたのは、天武天皇が古事記・日本書紀の編纂を命じた頃からだとされています。大和朝廷、天皇家の体制が磐石となったのを機に、他の氏族の神々を表の世界から消し去っていったようです。本来は男神の天照が女神になったのもこの頃といわれていますが、それは、天武の母親であった女帝・斉明から天武への皇位継承を、女神・天照からニニギへの天孫降臨に模すためであったといわれています。

本来の男神・天照は、最初の大和政権を打ちたてた、スサノオの子ニギハヤヒであるといわれていますが、天武帝にとっては、封じ込まねばならない不都合な存在だったのでしょう。

岩戸山・天照大神
祇園祭、岩戸山の天照。凛々しい姿です。(写真はネットから拝借)
岩戸山の名は、勿論、アマテラスの岩戸隠れに因んでいるわけですが、隠されたのは男神、出てきたのは女神だったというわけです。男神であるニギハヤヒが出てきたら、それが真の岩戸開きといわれています。
祇園祭は牛頭天王(スサノオ)を祀る祇園神社の伝統の祭。京の町衆は、アマテラスが男神であるという真実を守り続けているのですね。


出雲大社
次に出雲大社を見てみましょう。その前に、あまり知られていないであろう事実をWikipediaから引用します。

本殿・・・玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。(引用、以上)

つまり、我々が出雲大社に詣でて祈りを捧げるとき、その正面に鎮座するのは大国主ではなく、別天津神(ことあまつかみ)と呼ばれる天地開闢の時にあらわれた五柱の神々であり、大国主は、右端で横を向いているという構図です。この五柱の神々は、大国主のお目付け役なのでしょうか? 御客座五神のことは公式HPにも載っていないところをみると、あまり、大っぴらにはできないのでしょうね。
ですから、大国主に祈りを捧げるときには、垣外の本殿の西からお参りするのがよいのです。

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横に回ってみると、そこには小さな拝所があり、知っている人はこうして並んでいます。出雲大社に参拝されるときには、ちょっと、頭に入れておいてください。

さて、問題の注連縄ですが、
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太すぎて判りにくいですが、確かに、左元、右先の逆締めです。

大国主は、日本神話から見ても、今回のアルパパの考察から見ても、封じ込まれるべき不都合な存在なのです。

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出雲大社旅行中(2013年6月)のアル先生。
「僕の帽子姿、カッコいいかなぁ?」。
「アル先生、喜び過ぎて、目と耳がないよ!」


大山祇神社
大三島の大山祇神社も逆締めだそうです。

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この写真は、2016年9月の旅行記に載せたもの。境内摂社、宇迦神社のものです。
こちらは注連縄が細くて判りにくいのですが、よく見ると、左元、右先になっているようです。このときの記事で、アルパパは、ここには瀬織津姫が封じ込まれているのではないかと書いています。

ところで、大山積神は4姉妹、イワナガヒメ、コノハナサクヤヒメ(ニニギの妻)、コノハナチルヒメ(スサノオの子の妃)、カムオオイチヒメ(スサノオの妻で、大歳神、ウカノミタマノ神(稲荷神)の母)の父として有名ですが、その実態は謎で、全国の大山祇神社に色々なかたちで祀られています。あるところでは、スサノオの妻の稲田姫の祖父として神話に登場するかと思えば、ここ伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として登場し、また、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギの妻吾多津姫(コノハナサクヤヒメ)の父として祀られているといった具合です。このように、同一人物とは考えられない多様な側面があり、その土地、その土地の縄文の神を大山祗神と呼んでいるのかも知れませんし、更には、大山積神の降臨地がニギハヤヒの大和進出の地と重なるので、大山積=ニギハヤヒという説さえあります。であれば、もしかすると、閉じ込められているのは、大山積神かも・・・。


スサノオ考
昨年の鳥取旅行から、ずっと、スサノオさんを追ってきたように思います。スサノオファンのアルパパとしては、スサノオさんが退治したヤマタノオロチが悪神ではなく、平和な南方系縄文人のトーテムであったと知って、心穏やかではありませんが・・・。

それにしても、スサノオさんは、謎な神様です。日本神話でも、一瞬、しかも乱暴者として描かれただけで、すぐに、その姿を消してしまいましたが、どんな役割を持っているのでしょうか。

ヒントは、いくつかあります。「日月神示」の中では、国常立大神が、「スサナルノ大神さまは、陰で人民を守護されている、ご苦労な神様であるぞ」と述べています。また、スサナルノ大神は破壊と創造の神といわれています。つまり、普段、人の前にその姿を現すことはないが、本当に大きな時代の節目になると姿を現して区切りを付け、次の世を創るのがお役目なのだと思います。

数万年も続いた縄文の女性性の時代は、平和な時代でしたが、進歩がありませんでした。そこに登場したスサノオさんの役割は、長い停滞の時代を終わらせて、進歩をもたらすこと。それが、ヤタタノオロチ退治の意味するものです。
それに続く男性性の時代は、大きな進歩をもたらしましたが、一瞬たりとも、戦いが途切れることはありませんでした。そして、僅か2000年で、この男性性の時代は、既に煮詰まってきたように思います。そろそろ、次の時代に向けて、スサノオさんが動き出す。いや、もう動き出しているのではないでしょうか。創造に先立つ破壊という面では、我々の回りにその兆しはいくつも見て取れます。

そして、次の時代は、再び、女性性の時代かというと、そうではなく、天から降りてくるメッセージは、一様に、「男性性と女性性の統合」であり、「陰陽の統合」であり、「光と闇の統合」であり、「二元性を終わりにせよ」というものです。

さて、これから先、どんな破壊と創造が待ち受けているのでしょうか。数千年あるいは数万年に一度かも知れない、そういう時代に我々は、立ち会おうとしているのかも知れません。


<おしまい>

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2017'01.15 (Sun)

三輪山登拝 その3

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担当:アルパパ

12/24 三輪山登拝

一夜明けて、快晴です。三輪山登拝の受付は 9:00から、駐車場のオープンは 8:30からなので、道の駅「當麻の家」を 8:00頃出発し、再び、大神神社に向います。

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三輪山です。標高 467m、桜井市の標高は 80mぐらいですが、登拝口のある狭井(さい)神社は少し登っているので、標高 100mぐらいと思います。標高差は 370mというところです。

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お正月準備も万端。

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まずは、祓戸神社へご挨拶。

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蛇と宝珠と酒樽。大物主神は酒の神としても有名です。いかにも、大神神社という感じですね。

大神神社境内案内図
ここに、境内案内図が置いてあります。

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拝殿。既に、その2で述べたように、ご祭神は大物主大神です。本日は、ご神体山に登拝させていただくことを報告。

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有名なご神木。蛇の好物の卵がいつも沢山供えられています。

取敢えず、ご挨拶だけして、早速、狭井神社へ向います。
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狭井神社拝殿。正式には「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」といいます。名前から判るとおり、大物主大神の荒魂をお祀りしています。
お参りの後、登拝手続きを済ませると、いよいよ登拝開始です。

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登拝中に喉を潤すためのご神水を汲みました。

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登拝口。襷を受け取ってこれを首に掛け、右に御幣が置いてありますので、これで身を清め、それから登ります。襷は、神職の装束の代わりということのようです。

三輪山登拝案内図
登拝案内図をもらえます。

ここから先は、写真撮影禁止ですので、写真はありません。
案内図にもあるとおり、最初こそ少し尾根道がありますが、大半は階段です、ひたすら階段を登り続けます。途中、滝行を行なうための「三光の滝」と「中津磐座」があります。1時間は掛からず頂上「奥津磐座」に到着します。黒い岩がゴロゴロとたくさん積み重なっています。若い二人連れの女性が、額のところに長い時間手をかざしたまま、メッセージやビジョンを受け取ろうとしていました。このご神体山では、不思議なことがよく起こるそうです。
アルパパに、内宮の神様は大物主だと教えてくれたAさんが、10人ぐらいの仲間と登ったときには、白い古代装束の人の姿を、数人の人が同時に見かけたそうです。アル姉も、吉備中山の古代祭祀場跡で、数十人の白い古代装束を着た人たちが、祭祀を執り行っているビジョンを見たことがあります。古代祭祀場跡では、よくあることなのかも知れません。

頂上で、暫く時間を過ごした後、山を下ります。下りも階段ですから、同じぐらいの時間が掛かりますが、頂上で暫く時間を過ごしたとしても、登り下り合わせて、2時間ぐらいです。ただし、アルパパは、4・5日、筋肉痛に悩まされました。それも、腿とかふくらはぎではなく、ふくらはぎとくるぶしの間の筋肉です。階段を登り下りするときには、そこの筋肉を使うのだということがよく判りました。

さて、後は、大神神社の摂社をいくつか紹介します。
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活日(いくひ)神社。ご祭神は、酒造りの杜氏の祖神だそうです。大物主は酒の神様と言われていますが、実際に造ったのは、この神様ですね。

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磐座神社。ご祭神は少彦名(すくなひこな)神。造化3神の一人である神皇産霊の子といわれています。ご神体は磐座です。
少彦名神は、神話では大国主を助けて国土開発を行った神とされていますから、この説明版によると、大神神社は、表向き、大物主=大国主としていることが判ります。

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神宝(かんだから)神社。ご祭神は、熊野三神。

他にもありますが、過去記事でも色々と紹介したことがあるのでこの辺でお終いにします。


帰りに、橿原市今井町の重伝建に立ち寄ってみようと思ったのですが、適当な駐車場が見当りません。また、次回にということにして、そのまま帰路に。最近の街中の駐車場は、親切にも、出入口に雨よけの屋根が付いたものが多く、キャブコンは不自由します。おまけに、アルキング号はルーフエアコンを背負っているので、雨よけの屋根が長いと、まったくお手上げです。

一応、今回の旅行の紹介はここまてですが、更に、その4があります。

つづく

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2017'01.12 (Thu)

三輪山登拝 その2

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担当:アルパパ

玄賓庵
石上神宮参拝を終えて次に向かったのは、玄賓庵です。
奈良の古道、山の辺の道沿い、大神神社と檜原神社の間にある小さなお寺ですが、世阿弥の作と伝わる謡曲「三輪」の舞台となった、由緒ある真言宗の古刹です。キャンピンクカーを大神神社の大鳥居横の駐車場に置き、大神神社の境内を抜けて、北へと歩きます。距離は2kmぐらいでしょうか。
謡曲「三輪」のあらすじは、このHPでご覧いただくとして、アルパパが、惹きつけられるのは、この謡曲の最後のところ、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事」というくだり。これは、大神神社のご祭神(大物主)と、伊勢内宮のご祭神は同じであるといっているのです。

アルパパは、よく知った人から、内宮に祀られている本当の神は大物主であると聞いていたので、謡曲「三輪」のこの言葉を聞いたとき、素直に「ああ、やはりそうか」と思いました。
ところで、大物主は系譜のよく判らない神様で、大物主とは仮の名ではないかといわれています。では、本当は誰なのかということについては諸説あります。その一つは、大物主 = ニギハヤヒという説で、これが有力なようです。もう一つは、大物主は龍蛇族の王である大国主の高次エネルギー体であるというもの。更には、単純に、大物主=大国主という説もあります。
大物主は、蛇の化身として知られていますから、前者の場合、ニギハヤヒは牛族なので、それは違うのでは? と思っていましたが、つい最近、ヤマタノオロチのエネルギーと繋がって対話した人が、「わたしのインスピレーションで受けとった情報としては、大陸系海人族の牛族にも龍神とのつながりがあったと理解しています」と述べていたので、「え、えっ」と思いながらも、「それなら、それもありか」と無理に、結論付けることもないなと思っています。(※更には、 龍は牛と蛇との合体で生まれたものという説もあります)

で、大物主が誰かはさておき、肝心なことは、アマテラスを奉じる天孫族は大物主の力をとても恐れ、これを封印しているということなのです。このことについては、「三輪山登拝 その4」で、改めて、詳しく述べます。

そんな興味から、この謡曲「三輪」の舞台となった玄賓庵を訪ねてみたのです。
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山門。

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本堂。

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本堂に掛った扁額には、ご本尊は三光不動明王とあります。
しかも、「伝弘法大師 一刀三礼。重文 旧国宝、大和最古 不動明王」とありますから、中々のものです。「一刀三礼(いっとうさんらい)」とは、一刻みする度に3度礼拝するという意味で、弘法大師が心を込めて彫ったものと言い伝えられているということですね。仏像には、彫り手の心が宿り、それを通して仏へと繋がっていくものです。きっと、素晴らしいものでしょう。200円で拝観できるそうですが、残念ながら、この日は、お寺の人はいませんでした。

小さな庭ですが、
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不動明王石像。

神さまもお祀りされています。
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白大神。白大神って、ククリヒメ??

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その白大神のお社の前には、お堂があって、中には護摩壇が。

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三輪龍神。三輪龍神とは大物主のことでしょうか? 写真はありませんが、隣には、お稲荷さんもありました。
龍といえば、手(爪)に宝珠を持っていますが、この宝珠は、稲荷が銜(くわ)えているあの宝珠です。龍神と稲荷神の間には、切っても切れない関係があるようです。

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気持ちのよい庭でした。


檜原神社
玄賓庵から更に、600mほど北に歩くと檜原神社に到着します。ここは、大神神社の摂社の一つ。ご祭神は、天照大神若御魂神です。天照大神が伊勢に落ち着くまでに渡り歩いた 25箇所ある元伊勢の一つです。

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檜原神社は、ご祭神を天照大神若御魂神としていますが、本当のご神体は大神神社と同じく三輪山の磐座ですから、ここには拝殿も本殿もありません。ここのご祭神って何っ?という感じですね。鳥居は、三ッ鳥居で、この形は大神神社と同じです。大神神社の三ッ鳥居は、拝殿の奥、禁足地にあって見ることができませんが、ここでは間近で、じっくりと見ることができます。

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隣には、最初に天照大神を奉じて各地を転々とした豊鍬入姫命が祀られた末社、豊鍬入姫宮があります。

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お宮の前には、茶屋が一軒。よく見ると店の中に「春夏冬中」の看板が掛っています。「商い(秋ない)中」という意味でしょうか。
遠く、西に二上(ふたかみ)山を望むことができます。今日の宿泊地は、あの山の麓です。


山の辺の道寸景
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丁度、通りがかった人に、「これを写しとかなにゃ、あきまへんで。これは、入江泰吉さんの写真集には必ず出てきますからっ」と言われて撮った一枚がこれ。しかも、小林秀雄の字らしい。「なるほど!」。
アルパパも入江泰吉の写真集は2冊持っているので、帰って調べましたが、20枚ほどもある「山の辺の道」の写真に、この道標はありませんでした。

これで、本日の日程は終了。奈良盆地を東から西に横切って、本日の宿泊地、道の駅「ふたかみパーク當麻「當麻の家」」へ。途中、大雨にも見舞われましたが、屋根のコーキング修理を終えたばかりで、雨漏れもなく無事到着。
明日は、いよいよ三輪山登拝です。

つづく

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テーマ : 神社めぐり - ジャンル : 旅行

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