2017年03月 / 02月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫03月

2017'03.17 (Fri)

鴨方町歩き その②

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉
2/12(日)

2回にわけるほどでもなかったかな(苦笑)
その②ではかもがた町屋公園周辺のスポットの紹介です。
kamogatamap.jpg
町屋公園にあった看板。

鴨神社
r-DSC08988.jpg r-DSC08994.jpg
平安時代に京都の加茂大明神を勧請して建立されたと伝えられています。
その①で紹介した宮の石橋で有名です。

r-DSC08987_20170310213922f4a.jpg
拝殿。

r-DSC08990_20170310213924740.jpg
本殿。

r-DSC08991.jpg
鴨神社のある稲荷山の山頂に忠魂碑と広場。

r-DSC08993.jpg
風が強く肌寒いもののなかなかの眺めでした。

r-DSC08995.jpg
下まで降りて・・・鴨方往来にある鳥居。

浄光寺
r-DSC08999.jpg
浄土宗鎮西派のお寺。

r-DSC08998.jpg
浄光寺の向かいには、西山拙斎の居宅至楽居跡と私塾欽塾跡の看板。 西山拙斎は、「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋」と歌われる江戸時代後期の儒学者。

鴨方陣屋跡
jinnya0.jpg
現在は黒住教となっているようです。

r-DSC09000.jpg
石垣と井戸は当時のもの。黒住教と書いてあったので入らなかったのですが井戸があったのならちょっと見てみればよかったな。

r-DSC09001.jpg
鴨方陣屋跡の背後の鴨山は備中守護職細川氏の居城であった鴨山城跡です。昔は石が転がってるだけで何もなかったのだけど、今は城跡らしくわかるように整備されているという話だったので今度来たときは山頂まで行ってみます。

長川寺
r-DSC09003.jpg r-DSC09005.jpg
曹洞宗の禅寺。室町時代には鴨山城主細川氏の菩提寺となりました。

r-DSC09004.jpg
長川寺の境内にある龍宮門。旧正伝寺の山門で、明治から昭和にかけては鴨方高等学校が建っており、校門として使われていました。

西山拙斎の碑と墓
r-DSC09013.jpg
西山家の墓所にある西山拙斎の頌徳碑と墓。

r-DSC09012.jpg
説明看板。

その他
r-IMG_5032.jpg
現在の鴨方往来。

r-DSC09002.jpg r-DSC09016.jpg
少々肌寒い日でしたがそこかしこに春を感じられる町歩きでした。

にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ
スポンサーサイト

テーマ : ちょっとおでかけ - ジャンル : 旅行

21:31  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2017'03.04 (Sat)

鴨方街歩き その①

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

庭瀬に続いて鴨方へ行ってきました。前回紹介した庭瀬往来は鴨方往来の沿線です。

2/12(日)
かもがた町家公園
r-DSC08951.jpg r-DSC08950.jpg
江戸時代の岡山藩と鴨方支藩を結ぶ官道であった鴨方往来沿いに、 2棟の町家や土蔵などを修復した公園で、100名ほどのボランティアスタッフによって運営されているそうです。
公式ホームページはこちら

kamogata.jpg
マップ。

r-DSC08952.jpg
手前が遊びの広場。奥の方には伝統植物園がありますが公園が完成した当時はまだ孟宗竹に覆われていたそうです。

r-DSC08954.jpg
懐かしい竹の遊具です。何とかまだ竹馬に乗れるだけのバランス感覚はありました。

r-DSC08961.jpg r-DSC08962.jpg
ふれあいの館と井戸。

かもがた町屋公園の中核となっているのはこちら。
r-DSC09022.jpg
旧高戸家住宅。伝承館という有料見学できる施設になっています。有料と言っても大人100円、無料でガイドさんが案内してくれるので是非入ってみてください。
江戸時代鴨方藩の庄屋を世襲し油商を営んだ家で、出身が奈良県今井町ということもあって大和様式と備中様式を合わせた建築工法が用いられているそうです。ちなみにここは 江戸時代の貞享4年(1687年)の修理棟札から築後300年以上を経ていることがわかっており、岡山県最古の町屋だとされています。

kamogata2.jpg
パンフレットから間取りなど。

r-DSC08963.jpg
旧高戸家住宅の案内板。

r-DSC08967.jpg
みせどまの大戸口の格子戸。大きなものを入れるときには格子戸の枠そのものが開くようになっています。格子構は「切子付親子格子」と呼ばれる特殊な意匠なのだそうです。内側にある片折れの板戸なども戸が大きいがゆえの構造となっていて面白いです。

r-DSC08968.jpg
店の間の格子。ここで商いをしていたのですね。

r-DSC09023.jpg
式台。いわゆる式台玄関ですが、士農工商などの時代には商人の家に式台があるというのはよろしくないということで、隠すための覆いがあったのだとボランティアの方がおっしゃっていました。

r-DSC08969.jpg
奥にある座敷の襖絵は倉敷市船穂出身の画人小野雲鵬によるもの。蔵に保管されていたためとても色鮮やかなまま残っていたそうです。鹿の毛並みなど細やかで見事でした。今はこうして普通に飾られているのですが、焼けちゃって劣化するんじゃないかと心配になっちゃいますね。

r-DSC08970.jpg
欄間も美しいですね。

r-DSC08972.jpg
ちなみにこの高戸家の壁土なのですが、綺麗なピンク色をしていますよね。これは鉄の含有量の多い遥照山の土を使っているのだそうです。

r-DSC08971.jpg
お庭。飛び石の先には御成門があります。

r-DSC09021.jpg
通りから見た御成門。藩主が出入りに使ったとされる門です。

r-DSC08974.jpg
かまばにある置きくど。台所です。こんな大きな台所は岡山の町屋では珍しいんですって。持ち運びが可能になっているのも大和風の特徴。

r-DSC08976.jpg r-DSC08979.jpg
天井部分からは煙が出て行くようになっており、かまばの勝手口はとても広く置きくどが持ち出せる幅になっています。

r-DSC08980.jpg
かまばから。奥が店土間・店の間、手前は内庭と居間。

r-DSC08973_20170303205223d4c.jpg
江戸時代の数の暗号なども展示されていましたがとんちが聞いていて面白いですよね。

r-DSC08975.jpg
わかり辛いのですが、公園として整備する前の旧高戸家の様子を写したものです。復元修理前はやはりかなりボロボロだったようですね。

さて、外へ。
r-DSC09019.jpg
もう一つの町屋は棟札から延享5年(1748)に建てられたもので、分家の母屋。交流館として利用されています。この日は岡大の落研のまちや寄席が催されており、中から軽妙な落語と楽しそうな笑い声が漏れていました。

r-DSC08953.jpg
交流館裏手。まちや亭という和風喫茶があります。

r-DSC09018_201703032103523dc.jpg
書状集箱。明治初期に使用していたものと同じ型のポストで実際に使用されているのだそうです。面白い。

r-DSC08981.jpg
公園北側の展望台から。

r-DSC08983.jpg
公園の北側にある宮の石橋。「鴨方に過ぎたるものが三つある拙斎、索我、宮の石橋」と昔から里謡にうたわれているもののひとつです。長い板状の石6枚を反らせて造られた太鼓橋。手前には田中索我(江戸の絵師)の墓碑があるのですが写真にはおさめていませんでした。

r-DSC08985.jpg
別角度。この石橋は鴨方往来から鴨神社に参拝する参道となっているのです。立体交差している付近の小字名は「鴨之下通」。

r-DSC08986.jpg
この上が鴨神社。

鴨神社と公園周辺についてはまた次回。
にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ

テーマ : ちょっとおでかけ - ジャンル : 旅行

19:43  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017'02.11 (Sat)

庭瀬街歩き その②

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

1/22(日)

犬養毅生家と記念館の見学を終え、今度は街歩きです。駐車場は同じ場所を利用させてもらい、そのまま庭瀬城跡に向かって歩くことにしました。何の変哲もない普通の道を歩いてるだけなのですが知らない土地だと面白いですね。

r-DSC08885.jpg r-DSC08886.jpg
富山の置き薬の会社があったり、お庭でニワトリを飼っているお宅があったり、なかなか新鮮です。

niwase.jpg
庭瀬界隈のマップです。黄色いルートで回りました。

r-DSC08887.jpg
やがて庭瀬往来の町並み保存地区に到着。

庭瀬往来(鴨方往来)は、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。沿道には当時の面影を残す寺社や白壁の商家が並んでいます。金比羅への道を示した石の道標や石灯籠(常夜灯)も多く残っています。

r-DSC08888.jpg r-DSC08889.jpg
お薬屋さんだったのですね。

r-DSC08891.jpg
江戸時代創業の醤油やさん。

r-DSC08893.jpg r-DSC08892.jpg
庭瀬城の大手門だった場所。手前に町家、橋の奥に侍屋敷が並んでいました。左手には旧庭瀬港があります。

r-DSC08897.jpg
平成19年に復元された旧庭瀬港と常夜灯。

r-DSC08896.jpg
説明看板。

r-DSC08895.jpg

r-DSC08894.jpg r-DSC08898.jpg
「右 こんぴら」「左 吉備津」 もう一つはなんて読むのかしら。

庭瀬城跡
r-DSC08899.jpg r-DSC08900.jpg
住宅地の中にある水堀に囲まれた庭瀬城跡。

庭瀬城の築城については撫川城跡と一緒に後述します。江戸時代には庭瀬藩主の戸川逹安公2万9千石の居城となり、周囲に水を湛えた自然石の石垣に囲まれた典型的な沼城であったそうです。江戸時代初頭、四代安風亡き後廃藩となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋となりました。

r-DSC08904.jpg r-DSC08902.jpg
手前の中ノ島には八幡宮・弁財天・正一位 出世稲荷大明神が祀られています。

r-DSC08907.jpg
庭瀬城跡の碑。

r-DSC08908.jpg r-DSC08909.jpg
奥にあるのは清山神社。庭瀬藩藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩が祭神です。

r-DSC08906.jpg r-DSC08914.jpg
水掘には庭瀬出身の大賀一郎博士によって発見された大賀ハスが植えられています。

続いて撫川(なつかわ)城跡を目指します。
r-DSC08919.jpg r-DSC08929.jpg
道中で見つけた撫川うちわの看板。撫川うちわ製作技術を再興した坂野定香・定和父子の邸宅があったはずなのですが、今は更地になっていました。現在でも撫川うちわは「三杉堂」が中心となって、技術の伝承と後継者育成に取り組んでいるそうです。夏が近くなるとローカルニュースでよくやっていますね。

撫川城跡
r-DSC08932.jpg
住宅地の中に現れた水掘と撫川城跡。典型的な沼城。築城は永禄2年(1559年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせたとされます。

r-DSC08922.jpg
説明看板。

撫川城と庭瀬城は戦国時代は1つの城であったと思われ、二つに分かれたのは江戸時代のことと言われています。慶長2年(1602年)戸川逹安が、東の庭瀬城跡の初代藩主として2万9千石を与えられたことにより中心は二ノ丸(庭瀬城)に移ります。延宝2年(1679年)、戸川逹冨が5千石を知行した時、城郭を割り、本丸と三の丸を合わせて撫川城を中心に撫川陣屋を置き、現在の二つの城跡の呼び名のもととなったようです。

天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際には、毛利方の国境防備の城「備中境目七城」の一つとなり撫川城(庭瀬城)だけは秀吉の攻撃に耐え、1582年に毛利氏と羽柴氏が和睦するまで落城しなかったと言われています。境目七城は冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城(庭瀬城)。昨年の夏に備中高松城にも行ってきたのでまたそのうち記事をあげたいと思います。

r-DSC08921.jpg r-DSC08926.jpg
現存する野面積の石垣もなかなか見事。

r-DSC08920.jpg r-DSC08924.jpg
入口にある門は撫川陣屋総門を明治になって現在地に移築したもの。城跡公園には三神社と呼ばれる神社が祀られています。

r-DSC08936.jpg
撫川城跡をあとに再び庭瀬往来へ。またもや道標がありました。

こちらは庭瀬往来にある町並み歴史ギャラリー
r-DSC08937.jpg
r-DSC08938.jpg
r-DSC08939.jpg
庭瀬周辺の歴史についてのパネルがたくさんあり勉強になります。

r-DSC08941.jpg r-DSC08943.jpg
法万寺川にあった石灯籠は隣の信城寺に移設されて残されていました。

パンフレットにあったお勧めコースをだいぶショートカットしてしまいましたが庭瀬周辺を歩くのは初めてだったのでとても新鮮で楽しかったです。住宅地にありますが庭瀬城跡には広い駐車スペースもありました。また今度改めて行ってみようかな。
※庭瀬界隈の情報は@タウン吉備さんに詳しく載っています。

にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り - ジャンル : 旅行

13:52  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2017'02.05 (Sun)

庭瀬街歩き その①

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アル姉

1/22(日)

今年初めてのアルキング号の出動はとても近場ですが岡山市北区「庭瀬」でした。庭瀬の街並みと庭瀬城跡・撫川城跡が目的ですが、周辺に犬養毅(木堂)の生家と記念館があるのでまずはそちらへ向かいます。

犬養毅とは?
犬養毅は岡山県出身の政治家。号は木堂。慶応義塾に学び、西南戦争の折には従軍記者を務める。明治15年立憲改進党の結成に加わり、明治23年(1890年)、帝国議会開設に伴う第1回衆院選の岡山3区で当選以来、五・一五事件で暗殺されるまで連続18回当選。政党政治の確立と普通選挙制度の実現に尽力し、大正期の憲政擁護運動でも活躍し、憲政の神様と呼ばれた政治家でした。

r-DSC08855.jpg r-DSC08856.jpg
川入交差点そば(新幹線高架横)に立派な駐車場があります。

r-DSC08857.jpg r-DSC08949.jpg
駐車場から少し離れていて道がややわかりにくいという話を聞いたことがありますが「木堂こみち」の看板やプレートでしっかり道案内されているので迷わずにたどり着けました。
r-DSC08863.jpg r-DSC08861.jpg
表門

r-DSC08884.jpg
初当選の記念に植樹したというクスノキが立派に枝を広げています。

r-DSC08864.jpg
国指定重要文化財 犬養木堂生家
犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。
明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。
昭和6年(1931)内閣総理大臣となったが、翌年の5月15日首相官邸において兇徒に襲われ、
「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。
犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代中期に建てられたものである。
この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。
老朽化がはなはだしかったため、昭和54年(1979)解体復元したものである。

(現地案内板より)

r-DSC08866.jpg
手前から上端・中の間・座敷

r-DSC08869.jpg
台所

r-DSC08868.jpg
蔵前

r-DSC08870.jpg
蔵、井戸、木堂塾。

大庄屋の家ということもあってなかなか立派なお家です。明治元年、木堂が13歳の時に父が病死し、脇の部屋で近所の子供たちに教えていたというエピソードが残っており、木堂塾はそのエピソードにちなんで昭和56年に建てられた新しい建物です。10歳で経学を修め、13歳で塾を開いていたというのですから驚きです。その後まもなく倉敷へ出てしまったそうなので、この生家で過ごしたのは少年期までということになりますね。

r-DSC08873.jpg
小川を挟んで生家の横に建てられた記念館です。入館料は無料。毎週火曜日定休。比較的新しい印象で平成5年の開館だそうです。

r-DSC08876.jpg r-DSC08877.jpg
中庭も綺麗。常設展では直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、五・十五事件のとき血染めの座布団などが展示されています。血染めの座布団はちょっと生々しくてびっくりしますね。20分ほどのDVDも視聴でき、生い立ちから暗殺に至るまでの木堂の生き様を学ぶことができます。

r-DSC08878.jpg
大正14年(1925年)、普通選挙法が通過、成立すると、犬養毅は政界引退を発表し、長野県の白林荘で隠遁の身となりました。しかし、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が勝手に立候補させ当選、犬養はこれをやむなく受諾しますが、政界ではあまり活躍せず白林荘で過ごす時間が多かったのだそうです。しかし、昭和4年(1929年)、田中義一の急死により、犬養毅が政友会総裁に就任昭和6年(1931年)76歳にして第29代内閣総理大臣となり犬養内閣を発足。五・一五事件で凶弾に倒れるのはその翌年のことでした。

r-DSC08879.jpg
五・一五事件、教科書で習いましたよね。昭和7年(1932年)、5月15日首相官邸にて海軍青年将校らが侵入し、犬養毅がその凶弾に倒れた事件です。このときの「話せばわかる」という言葉は有名でしたが、私はこれを命乞いのような言葉だと勘違いしていたことがあります。字面だけをとらえるとそう思ってしまいますよね。ところが実際は・・・

官邸に侵入した将校の一人は出会い頭に引き金を引いたが不発におわります。それに対して木堂は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう、ついて来い」と彼らを引き入れ話をしようとしたのです。その後3発の銃弾を受け、駆けつけた女中に対して言ったのが「今の若造を連れ戻せ、話して聞かせることがある」という言葉だったのだそうです。

自分が撃たれたあともなお「話せばわかる、話をしよう」と言えるものなのでしょうか。木堂の「話すこと、議すること」を信条とする心の強さにとても驚かされました。

記念館では昭和7年の総選挙の為に録音したレコードで木堂の肉声を聞くこともできました。

YouTubeにあげられているものもありますのでリンクを載せておきます。

そう言えばこんなポスターがありました。
r-DSC08865.jpg
交通安全のポスターのようですが、いまいち意図がわからない起用です(苦笑)

この後は庭瀬の街歩きですが、長くなったのでまた次回。

にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ

テーマ : キャンピングカーぶらり旅 - ジャンル : 旅行

19:03  |  岡山  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017'01.18 (Wed)

三輪山登拝 その4

画像をクリックするとアップロードサイズでご覧いただけます。
使用カメラ:ソニーα55
担当:アルパパ

大神神社の注連縄
何度か記事に名を出したAさんですが、Aさんによると、注連縄を逆向きに絞めてある神社は、神様をそこに封じ込めてあることが多いそうです。代表的な例は、大神神社、出雲大社であると聞いていましたので、今回は、これを確認するのも目的の一つです。

DSC08755_20170110153823285.jpg

DSC08841_201701111421071fe.jpg DSC08842_20170111142108d43.jpg
大神神社の注連縄です。両端を大写しすると、左元、右先になっていますが、これが逆締めです。なるほど、確認しました。

こうした神々の封じ込めが行なわれたのは、天武天皇が古事記・日本書紀の編纂を命じた頃からだとされています。大和朝廷、天皇家の体制が磐石となったのを機に、他の氏族の神々を表の世界から消し去っていったようです。本来は男神の天照が女神になったのもこの頃といわれていますが、それは、天武の母親であった女帝・斉明から天武への皇位継承を、女神・天照からニニギへの天孫降臨に模すためであったといわれています。

本来の男神・天照は、最初の大和政権を打ちたてた、スサノオの子ニギハヤヒであるといわれていますが、天武帝にとっては、封じ込まねばならない不都合な存在だったのでしょう。

岩戸山・天照大神
祇園祭、岩戸山の天照。凛々しい姿です。(写真はネットから拝借)
岩戸山の名は、勿論、アマテラスの岩戸隠れに因んでいるわけですが、隠されたのは男神、出てきたのは女神だったというわけです。男神であるニギハヤヒが出てきたら、それが真の岩戸開きといわれています。
祇園祭は牛頭天王(スサノオ)を祀る祇園神社の伝統の祭。京の町衆は、アマテラスが男神であるという真実を守り続けているのですね。


出雲大社
次に出雲大社を見てみましょう。その前に、あまり知られていないであろう事実をWikipediaから引用します。

本殿・・・玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。(引用、以上)

つまり、我々が出雲大社に詣でて祈りを捧げるとき、その正面に鎮座するのは大国主ではなく、別天津神(ことあまつかみ)と呼ばれる天地開闢の時にあらわれた五柱の神々であり、大国主は、右端で横を向いているという構図です。この五柱の神々は、大国主のお目付け役なのでしょうか? 御客座五神のことは公式HPにも載っていないところをみると、あまり、大っぴらにはできないのでしょうね。
ですから、大国主に祈りを捧げるときには、垣外の本殿の西からお参りするのがよいのです。

DSC09556.jpg DSC09555.jpg
横に回ってみると、そこには小さな拝所があり、知っている人はこうして並んでいます。出雲大社に参拝されるときには、ちょっと、頭に入れておいてください。

さて、問題の注連縄ですが、
s-DSC09532_20170111161415e46.jpg
太すぎて判りにくいですが、確かに、左元、右先の逆締めです。

大国主は、日本神話から見ても、今回のアルパパの考察から見ても、封じ込まれるべき不都合な存在なのです。

s-DSC09385_20170111161417f36.jpg 
出雲大社旅行中(2013年6月)のアル先生。
「僕の帽子姿、カッコいいかなぁ?」。
「アル先生、喜び過ぎて、目と耳がないよ!」


大山祇神社
大三島の大山祇神社も逆締めだそうです。

r-DSC06262_2017011115554109e.jpg
この写真は、2016年9月の旅行記に載せたもの。境内摂社、宇迦神社のものです。
こちらは注連縄が細くて判りにくいのですが、よく見ると、左元、右先になっているようです。このときの記事で、アルパパは、ここには瀬織津姫が封じ込まれているのではないかと書いています。

ところで、大山積神は4姉妹、イワナガヒメ、コノハナサクヤヒメ(ニニギの妻)、コノハナチルヒメ(スサノオの子の妃)、カムオオイチヒメ(スサノオの妻で、大歳神、ウカノミタマノ神(稲荷神)の母)の父として有名ですが、その実態は謎で、全国の大山祇神社に色々なかたちで祀られています。あるところでは、スサノオの妻の稲田姫の祖父として神話に登場するかと思えば、ここ伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として登場し、また、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギの妻吾多津姫(コノハナサクヤヒメ)の父として祀られているといった具合です。このように、同一人物とは考えられない多様な側面があり、その土地、その土地の縄文の神を大山祗神と呼んでいるのかも知れませんし、更には、大山積神の降臨地がニギハヤヒの大和進出の地と重なるので、大山積=ニギハヤヒという説さえあります。であれば、もしかすると、閉じ込められているのは、大山積神かも・・・。


スサノオ考
昨年の鳥取旅行から、ずっと、スサノオさんを追ってきたように思います。スサノオファンのアルパパとしては、スサノオさんが退治したヤマタノオロチが悪神ではなく、平和な南方系縄文人のトーテムであったと知って、心穏やかではありませんが・・・。

それにしても、スサノオさんは、謎な神様です。日本神話でも、一瞬、しかも乱暴者として描かれただけで、すぐに、その姿を消してしまいましたが、どんな役割を持っているのでしょうか。

ヒントは、いくつかあります。「日月神示」の中では、国常立大神が、「スサナルノ大神さまは、陰で人民を守護されている、ご苦労な神様であるぞ」と述べています。また、スサナルノ大神は破壊と創造の神といわれています。つまり、普段、人の前にその姿を現すことはないが、本当に大きな時代の節目になると姿を現して区切りを付け、次の世を創るのがお役目なのだと思います。

数万年も続いた縄文の女性性の時代は、平和な時代でしたが、進歩がありませんでした。そこに登場したスサノオさんの役割は、長い停滞の時代を終わらせて、進歩をもたらすこと。それが、ヤタタノオロチ退治の意味するものです。
それに続く男性性の時代は、大きな進歩をもたらしましたが、一瞬たりとも、戦いが途切れることはありませんでした。そして、僅か2000年で、この男性性の時代は、既に煮詰まってきたように思います。そろそろ、次の時代に向けて、スサノオさんが動き出す。いや、もう動き出しているのではないでしょうか。創造に先立つ破壊という面では、我々の回りにその兆しはいくつも見て取れます。

そして、次の時代は、再び、女性性の時代かというと、そうではなく、天から降りてくるメッセージは、一様に、「男性性と女性性の統合」であり、「陰陽の統合」であり、「光と闇の統合」であり、「二元性を終わりにせよ」というものです。

さて、これから先、どんな破壊と創造が待ち受けているのでしょうか。数千年あるいは数万年に一度かも知れない、そういう時代に我々は、立ち会おうとしているのかも知れません。


<おしまい>

にほんブログ村 アウトドアブログ キャンピングカーへ

テーマ : 神社めぐり - ジャンル : 旅行

20:18  |  近畿  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑
 | HOME |  NEXT